ここにこの人あり

ネクタイで世界的なブランド目指す
不可能に見えても挑む意地っ張り

「この地域から世界に通用するブランドを作りたい」。ネクタイ専門の縫製会社笏本縫製の3代目で、38歳の笏本達宏代表取締役は大きな夢を抱く。岡山県津山市にある総勢12人の会社だが、目標に向けてまい進中である。母親が「私の代で畳む」と言うのに、あえて事業を承継。続けることさえ困難な下請けの窮状に発奮して、大胆にも自社ブランドのネクタイ作りに乗り出して10年。やると決めたら意地でもやり抜く構えである。
広報誌「日本公庫つなぐ」35号でもご紹介しております。

株式会社笏本縫製 代表取締役 笏本 達宏氏

株式会社笏本縫製 代表取締役
笏本 達宏(しゃくもと たつひろ)

1987年、岡山県津山市生まれ。美容師としての経験を経て、2008年に家業である笏本縫製に入社。2015年に自社ブランド「SHAKUNONE」を立ち上げ、2021年に3代目として代表取締役に就任。ネクタイ需要の減少を乗り越え、過去最高売上を達成。職人の技術と現代の感性を融合させたものづくりで、縫製業界に新たな価値を創造している。

世界の要人に贈られる 知る人ぞ知るブランド

笏本達宏氏はとにかくユニークである。母親である現会長の笏本たか子氏が「絶対に継がなくていい。同じ苦しみを経験させたくない」と止めるのを押し切って、苦労するのが分かっていながら家業の縫製業に自ら飛び込んだ。その経緯は後述するが、母親のたか子氏も並みの人ではない。

自社ブランドを作る時、笏本親子は「どうせやるなら総理大臣に締めてもらえるようなネクタイを作ろう」と語り合った。当時の笏本縫製を考えたら、言うだけただみたいな話だった。ところが、それが冗談ではなく、7年後に実現した。岸田文雄首相(当時)にあいさつに行く人が、同社の自社ブランド「SHAKUNONE」(笏の音)のネクタイを手土産に選んでくれて、実際に岸田首相の胸を飾ったそうだ。

「総理大臣に贈られるネクタイなら良かろうと、当時、米国大統領だったバイデンさんにプレゼントするというお客様がいました。確認していませんが、バイデンさんに贈られたようです」と笏本氏は話す。

さらに「これを見てください」と差し出されたスマホに、男性がネクタイを包みから出して喜ぶ姿が映っていた。男性が笑顔を正面に向けたのを見て驚いた。何とフィリピンのマルコス大統領である。「今年の3月ごろ、注文を受けて届けたら、マルコス大統領への贈り物だったので、びっくりしました」

同社のネクタイは知る人ぞ知るブランド品なのである。仕掛け人の笏本氏は気鋭の経営者といえる。しかしここまで来るには、いくつもの厚い壁を乗り越えてきた。

貧乏暇なしの縫製工場を営む母子家庭で育ち、高校を卒業して美容師になった。母親の心配をよそに家業に転じたが、案の定、クールビズの影響を受けてネクタイの下請けは厳しく、カネの苦労も散々した。過酷な運命にあらがってきたわけだが、そんなことを話し好きで明るい人柄は少しも感じさせないが、芯の強さが風貌に表れている。

笏本という名字も珍しい。「笏本は世界で19人しかいません。善い事をしても悪い事をしても目立ちます」と笏本氏は言う。「笏」は昔、貴族や武将が正装した時に手に持つ細長い板である。「笏本姓はこの辺りの発祥で、うちはいちいの木から笏を作っていた家かもしれないと、祖母から聞きました」

笏を二つに縦割りにした板を打ち鳴らす「笏拍子」という楽器が、雅楽などで用いられる。自社ブランドの「SHAKUNONE」(笏の音)は笏拍子の音色を意味し、優雅な連想を誘う。

しかし今日までの笏本氏の人生は、優雅とは縁遠かった。

家業の縫製業について当初は「継ぐ気なんかさらさらなかったのです。絶対に嫌だと思っていました」と言う。一日中働きづめの母親を見ていたら、疎ましく思うのも無理はない。

笏本縫製は1968年に、祖母の玉枝氏が個人事業として創業した。学校の生徒向けのシャツにボタンを付けるような内職程度の仕事から始まり、婦人服や子供服の縫製へと発展しても、下請け仕事であることは変わらない。

笏本氏は小学校時代に両親が離婚し、妹2人と共に母に女手一つで育てられた。「母は工場の仕事が忙しくて、家族そろってご飯を食べた記憶がありません。家族旅行も1回くらいしかない。そんな生活が嫌でしたね」

創業者である祖母・玉枝氏の背に抱かれる笏本氏。ものづくりの原点は祖母の温もりだ

しかし家族の結束は固かった。「母が縫製の実務を担って忙しかったので、私は祖母の作るご飯で大きくなりました。かわいがってくれて、ソフトボールやサッカーの試合に行くときには、祖母にバイクで送り迎えをしてもらいました。私はおばあちゃん子で、妹2人もおばあちゃん子です。私たち家族は祖母がいわば母親で、母が父親みたいな感じでしたね」。面白いことに、祖母、母親、笏本氏は皆年の生まれだという。「実は私の息子も卯年です。4世代がそろって卯年というのは、ちょっとした奇跡でしょう」

家業の縫製業があまりに忙しくてへきえきとしたものの、「背中を見せて私を育ててくれたのは、母であり祖母でした」と笏本氏は感謝している。

祖父は笏本氏が生まれる前の1985年に亡くなっている。祖母の玉枝氏も働き者だ。「祖母は人が良くてパワフルで、夕方や夜に明日までに仕上げてほしいと持ち込まれた仕事を二つ返事で引き受けて、夜なべをしていました。どんな無理な注文でもこなしてしまうので、魔法使いみたいでした」

創業者である祖母・玉枝氏の背に抱かれる笏本氏。ものづくりの原点は祖母の温もりだ

安物を作る会社と誤解 すごい技術を知り決心

笏本氏は祖母から「家業のことは考えなくていいから、自分のやりたいことをして、納得できる人生を歩みなさい」と言われていた。高校卒業後、2005年に美容師になったのは自然な流れだった。「母の髪がすごくきれいで、小さい頃、それに触りながら寝ていたので、髪に触れる職業がしたいと考えて、単純に美容師を選んだのです」

自社ブランド「SHAKUNONE」のシルク製ハンドメイドネクタイ。艶やかな質感と熟練の縫製技術が際立つ

津山の美容室に就職して3年、自弁で専門学校の通信教育を受けて美容師免許の国家試験を1回でパスした。さあこれからというときである。母親のたか子氏が一時病気になり、美容師をしながら手伝うことになった。

その2年ほど前から笏本縫製はネクタイの製造に転換していた。衣服の縫製が海外にどんどん流れて仕事が激減したため、生き残るためにまだましだったネクタイに賭けたのである。

手伝いに入って笏本縫製に対する笏本氏の認識は一変した。「それまで継ぐ気が無くて目を背けていたので、安物をひたすら作るだけの会社だと思っていました」。ところが「作っているのは有名ブランドのネクタイだったのです。うちの技術はすごいじゃないか」と、目が覚める思いがした。

「母は『私の代で終わらせる』と言っていたので、このまま無くなると思うと、急に悔しさが込み上げてきました。こんなに良い製品を真面目に作っている人たちが報われなくていいのか。憤りに近い気持ちが湧いて、私が絶対に何とかしようと継ぐ決心をして、押しかける形で入ったのです」。22歳の笏本氏にとって大きな転機だった。

自社ブランド「SHAKUNONE」のシルク製ハンドメイドネクタイ。艶やかな質感と熟練の縫製技術が際立つ

多くの人たちの支えで 自社ブランドはできた

「この会社を未来につなぐのが私の役割」との使命感に燃えて入ったが、現実は甘くない。2011年の東日本大震災で電力不足の懸念が高まり、ノーネクタイが浸透して、ひどいときには仕事が2、3カ月途絶えた。給料を払うために、一時は親戚や友人にも借金をした。「私は意地っ張りで、やり続けましたが、やめようかと思ったことが何度もありました」と打ち明ける。

下請けでは限界があると痛感して、打開策を模索していたときである。2014年、津山市役所の職員が訪ねてきた。翌年設立する「つやま産業支援センター」の準備で、市内の企業を回って課題を調べるためである。工場を見て、現在は同センターの事務局長になっている沼泰弘氏が「こんなに素敵な商品を作れるのに、なぜ自分たちで売ろうとしないのですか」と、疑問を口にした。この一言が笏本氏の胸に響き、暗中模索だった自社ブランドをぜひやろうと決心がついた。

こうして「SHAKUNONE」は、センターの支援を受けて2015年9月に生まれた。「もしあのとき背中を押してもらわなかったら、自社ブランドに踏み出せなかったと思います。市はたぶん作州津山商工会から紹介されてうちにも調査に来たのでしょう。いろんな縁のおかげです。もし支援センターや商工会などの多くの方々の支えがなかったら、うちはとっくにつぶれています」

コロナ禍でネクタイがさっぱりのときも助けられた。社員やその家族のマスクを作っていたら、それを知った商工会の田村正敏会長が来て、マスク不足で困っている人たちのために「マスクを作れ」と発破をかけて帰って行った。「そのおかげで、職人の手が止まることなく、仕事を続けることができました」

店頭で自ら接客に立つ笏本氏。ものづくりへの思いと品質への誇りを、顧客一人一人に直接届ける

笏本氏は、X(旧ツイッター)、フェイスブック、インスタグラムなどのSNSで毎日欠かさず情報を発信している。自社ブランドのネクタイは初年度に30本しか売れなかった。いかに良い商品だと言っても、知ってもらわなければ売れない。そのためSNSを活用しており、総フォロワー数は10万人に達するそうだ。

現在、ネット販売や岡山県の百貨店天満屋を中心に年間約5千本を販売している。価格は税込みで1本1万4300円である。下請け100%から、今では自社ブランドが約7割を占め、「緩やかに成長している」という。

最近、「つやまスーツ」のブランドでオーダースーツも販売している。笏本氏が中心となって企画やデザインを手掛け、津山市内の縫製会社が仕立てる。実は2010年に個人事業を株式会社にしたとき、「美容業」を定款に入れた。笏本氏は「いずれ男性の服装も髪もトータルにプロデュースする事業ができないかと考えています」と語る。

全ては津山から世界的なブランドを作る夢のためである。「目標は立てたら必ず達成しますが、実現は息子の代になるかもしれません」。息子さんは今何歳で?「1歳です。もう少し頑張らないと」と言って、豪快に笑った。

店頭で自ら接客に立つ笏本氏。ものづくりへの思いと品質への誇りを、顧客一人一人に直接届ける

※本ページの内容は取材当時のものです。

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