ここにこの人あり

スリッパを自社ブランドの高価格品に
安価な輸入品に対抗すべく発想を転換

阿部弘俊社長(69)は3代目経営者である。長男として日本一のスリッパ産地の山形県河北町にある阿部産業を引き継いだ。当時は輸入スリッパが市場を席巻し、家業を守るのが難しくなると考え、活路をオリジナル製品の開発に賭けた。今では、独自のブランドを確立して、スリッパは安価な日用雑貨というイメージをがらりと変えた。
広報誌「日本公庫つなぐ」31号でもご紹介しております。

阿部産業株式会社 代表取締役社長 阿部 弘俊氏

阿部産業株式会社 代表取締役社長
阿部 弘俊(あべ ひろとし)

1955年、山形県西村山郡河北町生まれ。山形市内の高校を卒業後、東京の雑貨問屋に就職し、4年間の修業を経て地元へ戻り阿部産業へ入社。1999年、44歳の時に3代目経営者として家業を承継する。輸入品との競争に苦しみながらも、オリジナル製品の開発に成功し、転換期にあった会社を成功へと導く。現在も、自社ブランドの確立に日々尽力している。

「あまりにも値段が高いので、売れるのかなと思いました」。照れるような笑顔を見せながら阿部産業の阿部弘俊社長が語るのは、2008年に開発した小売価格が2万円を超すスリッパ「KINU HAKI」のことである。

事業の存続をかけて送り出した第1作で、最高級の品質と履き心地には自信があった。とはいえ従来のスリッパのイメージからは値段も何もかも懸け離れていた。実際に需要をつかめるのかどうか。はったりのない真面目な人柄の阿部氏は自ら仕掛けながら、正直なところ半信半疑だったようだ。

「KINU HAKI」は、山形県の伝統的な絹織物である米沢織はかま地を用いて製作した。和と洋、伝統とモダンを巧みに調和させた、斬新なデザインのスリッパである。山形県の河北町でスリッパ作りを営む阿部氏が、なぜ開発できたのかは後述する。

発売早々翌2009年、グッドデザイン賞・日本商工会議所会頭賞や山形県のエクセレントデザイン奨励賞に輝いた。脚光を浴び海外の雑誌でも紹介されて、一瞬にして「見える世界が変わりました」と阿部氏は語る。

安い輸入品で経営危機 大幅に遅れた社長交代

「このままではじり貧だと思うようなことがなかったら、今も何も考えずにやっていたでしょう。何かしなければ生き残れないので、いろんな挑戦を始めたのかなと思います」

阿部氏はスリッパ産地の河北町の「革命児」と言いたいところだが、地場企業の実直な3代目経営者という印象である。「子どもの頃から『お前は長男だから家業をやるんだよ』と言われてきたので、他の仕事をやりたいと特に思いませんでした」と言う。

1973年に山形市立商業高校を卒業すると、東京・日本橋の雑貨問屋に4年の契約で修業に出た。「よそのメシを食ってこい」という父親である先代社長の考えに従ってのことだった。予定通り1977年に阿部産業に入社して専務になり、まず工場に入ってものづくりから仕事を覚えた。

阿部氏が育った河北町の辺りは、昔から農家の女性が農閑期に稲わらを材料に草履表を作っており、草履作りが盛んだった。1919年に阿部才吉商店を創業した祖父の初代才吉氏が始めたのも草履表の仲買と製造である。引き継いだ父の2代目才吉氏は、生活の洋風化に伴って草履の需要が減ったため、1971年にスリッパの製造に転換した。

「KINU HAKI」は、「絹」を履く、ぜいたくな逸品。最高級の絹を用い、米沢織職人が丹精込め織りあげたはかま地を、日本の所作「たたむ・仕舞う・携える」をテーマに仕上げている

河北町が日本最大の草履産地からスリッパ産地に変化する中で、2代目才吉氏は百貨店市場向けに特化した高級スリッパを作り、東京の履物問屋に売り込んで成功した。3代目である阿部氏の役割は当初、父の仕事をきちんと引き継ぐことだった。

ところがその頃から安い輸入品が増えて、贈答用の高級品も中国などへの生産移転が急激に進んだ。「私は1999年に社長になったのですが、本当はもっと早く交代するはずでした。しかしうちの製品の40%を扱っていた問屋がつぶれて、社長交代は時期尚早と考え、先延ばしになったのです」

結局、取引先の問屋大手4社のうち3社が倒産し、巨額の焦げ付きを抱えた。「国民金融公庫(現日本公庫)の融資を受けて、やっとしのぎました。『絶対大丈夫だ。私が資金を拠出する』と言った時の父を頼もしいと思いましたね。もし私独りだったら、事業を畳んでいたかもしれません」。実際、同業者からも廃業が相次いでいた。

「KINU HAKI」は、「絹」を履く、ぜいたくな逸品。最高級の絹を用い、米沢織職人が丹精込め織りあげたはかま地を、日本の所作「たたむ・仕舞う・携える」をテーマに仕上げている

いずれ事業継続は困難 オリジナル製品に活路

阿部氏が社長になってからも、厳しさは変わらない。「この業界はずっと大変だったんです。従業員を100人くらい使っていた大手メーカーがつぶれ、低価格品をやっていた零細な業者も行き詰まる状態でした」と振り返る。

このままではいずれ事業の継続は困難になりかねないと思っていた矢先だった。山形県工業技術センターの勧めを受けて、「デザインからやり直そう」と決心した。夫人の宏子取締役・マネージャーとともに県主催のエクセレントデザイン塾に参加した。その講師の1人であるデザインコーディネーターの山田節子氏との出会いが「KINU HAKI」開発の端緒になった。

「こういうのをドブネズミ色って言うのよ」。どんな物を作っているのか見せなさいと言われて、さまざまな製品を教室に持って行ったら、山田氏にずばりと指摘された。ショックでもあったが、自分たちにはないセンスと豊富な情報に目からうろこが落ちる思いがした。

新しいオリジナル製品を作るために、ぜひ山田氏の助力を得たい。突っ込んで相談するには、思い切って東京の事務所に訪ねるしかない。

しかし阿部氏はそんなに腰が軽いタイプではない。宏子氏が、「行かなくては駄目よ」と阿部氏の背中を押す感じで、訪問が実現した。不安だったが、2人の真剣な表情を見て、山田氏は「やる気があるなら、手伝うわよ」と応じてくれた。

「山田先生のところに出かけていったから、今につながる道が開けたのだと思います」と阿部氏は述懐する。

「『地域にある最高の物を、地域から積極的に発信しなければ地方は生き残れない』という先生の強い想いに、すっかり共鳴しました」。具体的に「山形県には素晴らしい米沢織のはかま地があるでしょ。これを使って開発しなさい」と助言された。

米沢織はかま地のメーカーやデザイナーを紹介してもらって、開発したのが「KINU HAKI」である。

守りの3代目から脱皮 納得したら頑固に継続

阿部氏は、受け継いだものを守り続ける3代目経営者のある種の典型からは完全に脱皮した。存亡の機に追い込まれて、事業を継続するため経営のやり方を抜本的に変えたのである。

「今では私は製品のネーミングから希望小売価格の設定まで自分でやっています。自社で決めた掛け率で卸すという売り方です。父の代までは、コストに利益を乗せて幾らで問屋に売るというところまでで、その先は流通業界に任せていました。それを私は希望小売価格を決めて、セレクトショップなどのお店や消費者に、製品の価値を直接訴求する売り方に改めてきたのです」

この路線を追求するには、消費者を魅了するオリジナル製品を作り続けなければならない。それはそれでしんどい。しかし「もうかじを切ったので、今の方針でずっとやっていこうと思っています」と、決意は固いようだ。

宏子氏は「社長はとても頭が固い人です。製品開発の過程でも、『こんな色は駄目だ』と言い出したら聞かない。頑固なんですよ」と評する。阿部氏は笑顔を絶やさず穏やかな性格に見えるが、一徹さを併せ持っているらしい。また宏子氏は阿部氏について「いったんやると決めたら、仕事は早いし、四の五の言わずにやり遂げます」とも言う。なるほど、納得したらぶれない頑固さがあるのだろう。

「ホームシューズ」掲げ スリッパの概念変える

2018年に阿部氏は「ABE HOME SHOES」という企業ブランドを掲げた。天童市のデザイン会社代表、萩原尚季氏との出会いがきっかけだった。萩原氏は、温泉旅館の依頼を受け、将棋の駒形のスリッパ卓球のラケットを作れないか相談に訪れた。スリッパ卓球とは、スリッパをラケット代わりに楽しむ卓球で、河北町は名だたるスリッパ産地なので「全国スリッパ卓球大会」なるものが催されていた。天童市は将棋と温泉が有名、温泉といえば温泉卓球、そこで駒形のスリッパラケット作りが依頼されたわけである。

快諾した阿部氏は、いろいろ話す中で「作り手の想いを消費者に伝えるいい方法はないか」と聞いてみた。「軽くて履き心地にこだわったものづくりを追求している」と伝えると、萩原氏は「会社のブランディング」を提案。ここから萩原氏の協力を得てブランドづくりのプロジェクトが始まった。

海外展開のきっかけとなった「帆布バブーシュ」。足の甲を包み込む絶妙な形で人気を博している

同社には従業員がパートタイマーを含めて20人いて、この他に内職が20人ほどいる。全員の意見を集約して「家に帰ったら、ほっとできるものを作りたい」というコンセプトが固まり、「ABE HOME SHOES」が決まった。

「ホームシューズ第1弾として発売した『帆布バブーシュ』が大ヒットしました」。モロッコの履物に倣った特徴的なデザインで、カラフルで丈夫な帆布を使い、丸洗いができる。2019年には山形県のエクセレントデザイン ブランドデザイン賞を受賞した。小売価格はサイズによって異なるが1足3千円台である。

新型コロナウイルスのため、家で過ごす時間が増えて、洗濯機で洗える清潔さから海外からも問い合わせが寄せられ、輸出を始めた。「『ABE HOME SHOES』で、家に帰ったら室内履きに履き替える日本の素晴らしい文化を海外に広めたいですね」と阿部氏は期待する。輸出先は米国、イスラエル、スウェーデン、オーストラリア、台湾などである。

海外展開のきっかけとなった「帆布バブーシュ」。足の甲を包み込む絶妙な形で人気を博している

気張らず前進し続ける 工場にショップを計画

山田氏や萩原氏などのさまざまな専門家の助力を得られるのは、阿部氏の特異な点だ。「仕事にすごく真面目に丁寧に取り組むので、皆さんが一生懸命協力してくれるのかもしれません」と宏子氏は見る。阿部氏は「苦労しましたが、諦めずにチャレンジしていると、幸いなことに志の高い人たちに巡り会えました」と語る。

阿部弘俊社長(右)と共に、100年以上続く会社を支える宏子取締役・マネージャー(左)

働き者だった創業者の祖父や百貨店問屋を開拓した父からも、受け継いだものがあるだろう。父2代目才吉氏から教わったことは三つあると言う。「第一にいい物を作りなさい。第二に取引先を大事にしなさい。取引先が良くなれば、うちも良くなる。第三に人がたくさん集まる場で売らなければ駄目だと、よく言われました。子どもの頃、父が毎月、東京に出かけて夜行列車で帰ってくるのを覚えています」

「『KINU HAKI』が高く評価されたので、私たちもやる気が湧きました。運も良かった」。阿部氏はそう言うが、運も実力のうちである。実直に努力する姿勢が、協力者の輪を広げたのに違いない。現在、日産500から600足で、ピーク時と比べて3分の1だが、単価の高い手間のかかる商品が中心になっている。「新しい製品を作るのが面白くなりました。このまま順調にいくか分かりませんが、前に進んでいきます」と、気張らずに語る。

現在、工場にショールームを兼ねたショップを設ける計画を進めている。年内か来年にはオープンする見込みだそうだ。「草履からスリッパまで産地の歴史が分かる展示もして、訪れた人が工場見学やスリッパ作りも体験できるようにしたいんです」。阿部氏は構想を楽しそうに語り、笑みを浮かべた。

阿部弘俊社長(右)と共に、100年以上続く会社を支える宏子取締役・マネージャー(左)

※本ページの内容は取材当時のものです。

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