ここにこの人あり

官僚から神戸の名門企業のトップに
起伏に富む人生を「天の声」と達観

神戸の名門小泉製麻の植村武雄取締役会長(78)は、官僚を経て経営者になり地元経済界に地歩を築き、社会的な仕事にも携わってきた。うらやむべき成功者に見えるが、行くところ必ず難問に直面した。植村氏は「天の声」と受け止め、ひるまずベストを尽くして今に至っている。おごらず、真っすぐ、随所に主となる生き方を貫く。
広報誌「日本公庫つなぐ」30号でもご紹介しております。

小泉製麻株式会社 取締役会長 植村 武雄氏

小泉製麻株式会社 取締役会長
植村 武雄(うえむら たけお)

1945年兵庫県芦屋市生まれ。東京大学法学部卒業後、運輸省(現国土交通省)入省。官僚として経験を積み、42歳の時に小泉製麻株式会社入社。以後、幾度もの苦難を乗り越えながら経営改革に手腕を発揮する。1992年同社取締役社長に就任、2015年からは会長を務める。経営に携わる傍ら、経営者としての豊富な経験と見識を生かし、学校法人甲南学園監事や神戸商工会議所副会頭などを歴任。

小泉製麻は創業133年の名門企業である。前社長で現取締役会長である植村武雄氏は、神戸経済同友会代表幹事や神戸商工会議所副会頭などを歴任した。地元経済界の有力者の一人である。さらに官僚出身といえば、堅苦しいイメージが思い浮かぶが、実際には形式張らず、何事も自分の言葉で率直に語る人物である。

「この会社に入った時は、『役人をしていた妙な奴が、落下傘で降りてきて大胆で無茶苦茶なことを言いよる』とみんな思ったのではないですか。宇宙人みたいなのが来たとね」

1987年、運輸省(現国土交通省)の自動車業務課長を最後に、20年間の官僚生活に終止符を打ち、小泉製麻に入社したのは42歳の時である。

当時、本社社屋は木造の洋館で古色蒼然としていた。「暗い雰囲気でしたね。木製の机といすを使っていて、それも工場の営繕係が作ったごつい物でした。また営業用の車もなかった。レンタカーを使うルールだったのです。今どき営業が車なしでは無理だろうと言ったほどです」。旧弊な企業体質は、カルチャーショックだった。

「随分、悩んだ」が興味あった民間の仕事

植村氏の小泉製麻入社は、いくつかの事情が重なった結果である。同氏は先々代の社長だった小泉徳一氏の女婿である。夫人は3姉妹の二女で、小泉家には跡継ぎがいなかった。徳一氏から植村氏の次男である康史氏を養子に迎えたいという話が先にあった。

植村氏は運輸省の仕事に精励し「大いにやりがいを感じていた」。しかし課長職も経験して、役所の仕事を一通りやりきったと思った頃、「義父から示唆があったのです」と言う。小泉製麻を手伝ってもらえないかとの打診である。

だが当時の小泉製麻は、祖業のジュート(黄麻)紡績が縮小を続け、それを補うために手掛けた脱繊維の事業もうまくいっていなかった。名門企業で安穏にというわけにはいかない。

東京の生活に慣れた夫人は神戸に戻ることに賛成ではなかった。「息子を養子に出すにしても、小泉家といえば小泉製麻でしたから、事業が安定して続かなければ意味がない」。あれこれ「随分、悩んだ」そうだ。

結局、「民間で仕事をしてみたいという気持ち」が勝って踏み切った。父親の植村光雄氏は戦前、住友本社に入社して、戦後、財閥解体に伴い日本建設産業(現住友商事)に移り、1977年に住商の社長になった根っからの商社マンである。「父親からもいろんな話を聞いていたので、民間企業の仕事にもともと興味があったのです」

1890年(明治23年)、兵庫県菟原郡都賀浜村に日本最初のジュート工場を建設。日清戦争の特需により、麻糸生産が拡大する

実は植村氏は官僚にならなければ、住友電工に就職するはずだった。灘高校を卒業して東京大学法学部に進み、結果的に国家公務員コースに乗っていた。「特に何か志望がないなら、公務員試験を受けておかないとあかんと思って受けたのです」

住友電工の入社試験も合格したが、面接で「公務員試験が受かったら、そちらを選ぶかもしれません」と正直に話した。父親の光雄氏から「そんなことを面接で言うものではないぞ」と言われたが、「隠さなかったのは、今でも正しかった」と思っている。

光雄氏も住友本社の入社面接で冷や汗をかいた経験を、1980年の『財界』臨時増刊号(財界研究所)で述べている。「君は高等試験司法科をパスしているのに、なぜ受けたのか」と問われ、「力試しのつもりで受けました」と不用意に答えて、突っ込まれた。どちらも適当に誤魔化すことができない性格のようだ。

1890年(明治23年)、兵庫県菟原郡都賀浜村に日本最初のジュート工場を建設。日清戦争の特需により、麻糸生産が拡大する

転機も難題克服も「天の声」の導きで

小泉製麻に入って神戸に戻った植村氏は、次男の康史氏が大学に入り20歳になるのを待って、小泉家に養子に入る話をして同意を得た。こうして康史氏は小泉姓に変わり、8年前に植村氏の後を受けて社長に就任して、小泉製麻の経営を引き継いだ。

役所から民間企業に移るのは、大きな転機といえる。植村氏は「たまたまですね。人生はそういうものじゃないかな。思い切ってこの会社に入らなければ、公務員をそのままやっていたでしょう」と振り返る。40代初めで課長という立場は、「役所を辞めるぎりぎりのタイミングだった」と言う。

小泉製麻に入ってからも経営改革、そして阪神・淡路大震災からの復興と、息つく暇は無かった。紆余曲折を経て、植村氏には思うことがある。

「不思議なのですけど、『天の声』みたいなものがあって、後になってみると、何かそういうものに導かれたように思えるのです。人生には、『天の声』というのか、何か見えざる力が働いているような気がしませんか」。小泉製麻に入ったのも「そんな気がします。何かよく分からないのですが」と言う。

「ちょっと違うかもしれませんが、塞翁が馬のような感じもしますね」。禍福はあざなえる縄の如し、幸不幸や良いこと悪いことは、表と裏のように密接に関係している。苦労したことが、後に良い結果につながることがある。

人はそれぞれ異なる人生を歩む。さまざまな分岐点で、自分の意志で進路を選ぶのだが、来し方を振り返って考えると、どうしてこうなったのか不思議である。「天の声」は、その一つの解になるのだろう。天の声の差配だと思えば、何事も全力を尽くすほかない。人事を尽くして天命を待つという考え方にも通じる、ある種の積極主義とも楽観主義ともいえる。

アランの言葉に感銘 「要は弱気になるな」

入社して、企業イメージの刷新を図るコーポレートアイデンティティー(CI)などのコンサルタントをしていた加藤邦宏氏に、「小泉製麻は古いので、社名を変えようと思うのですが」と意見を求めたことがある。これに対して「今は変えない方がいい。まずは経営のシステム、仕組みから変えるべきです」と助言された。

指導を受けて、どんぶり勘定の経営を改めたり事業計画をきちんと立てたりして経営改革に取り組んだ。その加藤氏から、フランスの哲学者アランの言葉を聞いて、心に残った。

紡績時代から培った技術と知識は、現在の化成品の開発製造へと引継がれている

アランの『幸福論』(神谷幹夫訳、岩波書店、1998年)にある「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という言葉である。これは「気分に任せて生きる人はみんな、悲しみにとらわれる」と続く。

「アランの言葉にグッときましたね。気分は大切ですが、いろんなことを気分で考えてはいけない。要は弱気になるなということです」

サントリーの創業者、鳥井信治郎の「やってみなはれ」も好きな言葉で、社内の空気をかき立てるために、社員にこう語る。「これは『やってみなはれ。やらなわからしまへんで』なんですよ。やらなければ分からないのだから、やらないで、できる、できない、いいの、悪いのと考えてばかりいては駄目だ。まずやって、うまくいかなければ、止めればいいんです」

紡績時代から培った技術と知識は、現在の化成品の開発製造へと引継がれている

ようやく乗り切って 阪神・淡路大震災に

「社員に小泉製麻に誇りを持ってほしい」と思う植村氏は、「我々は創業時、100%ベンチャービジネスだった」と話す。近江商人の小泉新助が、イギリスの商社と共同出資で1890年(明治23年)に会社を設立。建設したレンガ造りの日本初のジュート(黄麻)紡績工場は、神戸における民間による近代工業の幕開けを告げる先駆けだった。

1991年、ROKKO23(六甲ヴァントワァ)開業。阪神・淡路大震災により被災し、本社地区の建物など24棟が倒壊

しかし100年を超す時間が退嬰的な会社に変えた。植村氏は、不採算事業を整理する一方、前向きな事業として工場跡地に「ROKKO23(六甲ヴァントワァ)」を建設した。古いレンガの外壁を生かした同施設は1991年に開業し、92年に植村氏は社長に就任した。

ところが「何とか乗り切ったと思ったら地震ですよ」。95年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災に襲われた。就寝中である。「ドンと下にたたきつけられるような衝撃で、飛び起きました。最初ミサイルでも落ちたかと思いました」。外を見ると、あちこちに火の手が上がっている。一つは会社地区の方向である。

「危ないから」と夫人に引き止められたが、徒歩30分ほどの距離を急いで駆け付けた。着いてみたら、六甲ヴァントワァや本社社屋は全壊である。飲料容器などの包装材の工場などは地方にあって助かったが、神戸の同社の施設35棟のうち24棟が倒壊した。

1991年、ROKKO23(六甲ヴァントワァ)開業。阪神・淡路大震災により被災し、本社地区の建物など24棟が倒壊

役立った元官僚の経験 業績は見違えるように

「ショックではあるけど、自然災害だから仕方がない」と吹っ切れた気持ちで、早速、残った建物の一角に「対策本部」を設けた。電話が不通だったが、口伝えで社員が続々集まってきた。幸い全員無事だった。

役立ったのは官僚時代の経験である。役所との折衝や関係方面との調整、支援策などの情報収集、復興計画作りと、フルに発揮した。2年後にボウリング場のある「グランド六甲ビル」を中小企業金融公庫(現日本公庫)などの融資で再建。5年後には六甲ヴァントワァの跡地に新たに商業施設「サザンモール六甲B612」を開業した。

2000年には、神戸本社地区総合開発事業として 商業施設「サザンモール六甲B612」 をオープン し、同3階事務所棟に本社事務所を移転。2020年には創業130周年を迎えた

顧みると運輸省でも「修羅場までいかないが大変でした」と言う。入省早々、成田空港問題、さらにロッキード事件の後始末。1980年には初入閣の塩川正十郎運輸大臣の秘書官を務めた。塩川大臣は最初の記者会見で事務方の用意した紙にない「関西国際空港建設」をぶち上げた。大騒ぎになり、植村氏も大変だったが、「いい大臣でしたよ。勉強になりました」と語る。ちなみに塩川氏は自著の『ある凡人の告白』(藤原書店、2009年)に「私の運輸相就任は、『関空をやれ』との天の声でしたな」と記している。

現在は「会社の仕事は社長以下に100%任せています。ただ取締役なので役員会に出席して、新商品開発や新市場に出るような案件には、長い人生経験に基づいて助言しています」と語る。収益力は入社当時と比べると見違えるように良くなった。ただし「古い保守的な遺伝子が残っていて、主体的に提案する積極性がまだ弱い」と、これからの一層の奮起を期待する。

兵庫県功労者表彰などを受賞しているが、勲章は「もらいません。前に声をかけてくれた時にお断りしています」。はなから関心がないのだろう。いかにも、てらいのない植村氏らしい。

2000年には、神戸本社地区総合開発事業として 商業施設「サザンモール六甲B612」 をオープン し、同3階事務所棟に本社事務所を移転。2020年には創業130周年を迎えた

※本ページの内容は取材当時のものです。

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