ここにこの人あり

歓楽街という負のイメージを一新
おごと温泉復活の立役者

1992年をピークに、温泉地の宿泊客は減少傾向にある。そうした中、今なお客が引きも切らず訪れているのが滋賀・琵琶湖畔の「おごと温泉」だ。歓楽街というレッテルを貼られ落ち込んだ客足を、老舗旅館の三代目はいかに取り戻したのか。
広報誌「日本公庫つなぐ」17号でもご紹介しております。

株式会社湯本舘 代表取締役会長 針谷 了氏

株式会社湯元舘 代表取締役会長
針谷 了(はりたに さとる)

1951年滋賀県生まれ。同志社大学卒業。69年倒産寸前の家業を支えるため、大学1年で湯元舘に入社。74年、23歳で専務になり、76年25歳で実質的経営トップに。84年先代である父・和雄氏の死去に伴い、33歳で社長に就任。2011年還暦を迎えたのを機に会長に。おごと温泉観光協会会長、日本旅館協会会長などを歴任。現在、日本観光振興協会副会長。湯元舘の革新と同時に、おごと温泉の変革に尽力。歓楽街という負のイメージを一新、「おごとブランド」を確立した。

今から約1200年前、比叡山延暦寺の開祖・最澄により開湯されたと伝えられるおごと温泉。来客は家族連れや女性同士のグループが多く、2018年度の宿泊客数はおごと温泉全体で約45万人という。

「今もバブル時代より多いお客様にご宿泊いただいている温泉地は、全国でもここくらいだと思います」。1929年創業、おごと温泉で一番の老舗旅館の一つである湯元舘会長の針谷了氏はこう話す。

ここに至るまでには、いくつもの試行錯誤があった。60年前後からは、比叡山ドライブウェイ、琵琶湖大橋の開通などで大いににぎわった。70年は大阪で開催された日本万国博覧会の影響で大繁盛。しかし万博が終わると、勢いはピタリと止まった。

以降、この地は長い苦境のときを過ごすことになるのだが、その最大の要因は温泉街の目と鼻の先にある一大風俗街にあった。71年頃から近隣に風俗店が次々と進出。男性客が急増し、大阪万博以降の落ち込みを一時的にカバーするも、3年でブームは終了した。そして、歓楽街としての悪いイメージだけが残った。なじみの上客や家族連れ、修学旅行客などからは敬遠され、県当局や地元からも白い目で見られたという。

2008年「おごと温泉」に駅名を改称したのに合わせて、観光協会が駅前に足湯を設置。観光客に温泉街をアピールする狙い

その後男性客も次第に減少し危機感を抱いた針谷氏は、「このままではいけない」と実行委員長を買って出て、夏休みはアニメ・キャラクターショー「西びわ湖ファミリーフェスタ」、冬は「温泉と鴨まつり」といったイベントを開催。多少の効果はあったが、抜本的な解決策にはならなかった。バブル崩壊後の不況もあり、気づけばおごと温泉の旅館は最盛期の28軒から9軒に減少していた。

そんな中、旅館の後継者が次々に帰郷してきたのを機に、98年、勉強会「雄琴青年経営者塾」を立ち上げる。当時、おごと温泉旅館協同組合の最年少理事だった針谷氏が塾長として、20代の後継者5人に声をかけ、2年にわたり勉強した。内容は財務や労務、販売戦略、設備投資など多岐にわたる。「この勉強会が、その後のイメージ改善の取り組みの起爆剤になったのは間違いない。おごと温泉を一緒に盛り上げようという人材と団結力が育った」と針谷氏は振り返る。

2008年「おごと温泉」に駅名を改称したのに合わせて、観光協会が駅前に足湯を設置。観光客に温泉街をアピールする狙い

生き残りを懸けて団体から個人客へシフト

針谷氏はこの地で生まれ育った。18歳で家業に入り、25歳で経営を任されて以来、何度も危機的状況に追い込まれながらここまでやってきた。旅館業や地域への思い入れは人一倍強い。こうした活動と同時進行で、自社の変革にも取り組んだ。

ターニングポイントとなったのは、団体客から個人客へのシフトだ。95年に南館を増築し、カフェテラスやナイトラウンジを新たに設けた。99年にはヒノキ風呂付きの和室と料亭を備えた新館「月心亭」を開業。いずれも社運を懸けた大規模な設備投資だったが、結果としてこれが大成功。大入り満員となった。

針谷氏の成功を見た他の旅館も、露天風呂付きの客室や創作料理の提供など個人客向けの施策に取り組み始める。このとき合言葉になったのは「おごと温泉内でのまねはやめよう」だ。

以前読んだ生物多様性に関する本にヒントがあった。「生物は個体数ではなく、種の多いときに最も繁栄する。大もあれば小もある、和もあれば洋もある。風呂に力を入れたり、料理を工夫したり、いろいろなタイプの旅館がある温泉地が強い。そういう温泉地にしていこう。他のエリアの旅館のまねはいいが、おごと温泉内ではそれぞれ違うコンセプトで勝負しよう」。針谷氏はそう説明した。

ここまでの協調体制が取れたのには、温泉地の成り立ちが関係している。戦前から続く旅館は3軒のみ。他は50年代以降に誕生している。最初の3軒が今後の発展を考え、「一緒にやらないか」と声をかけ、ノウハウを教えてきた。また温泉地として小規模であることも奏功した。

湯元舘はいち早く団体客向けから個人客向けにシフトした。琵琶湖が一望できる開放感あふれる露天風呂も目玉の1つ

こうした組合ぐるみによる旅館同士の切磋琢磨が相乗効果を生み、着実に来客は増えていった。そして2003年、おごと温泉旅館協同組合は一気に世代交代し、平均年齢は62歳から36歳に若返った。最年少理事だった針谷氏が最年長になり、理事長に就任した。

活動はいっそう加速。06年に「おごと温泉」の商標登録を取得したほか、08年には最寄り駅のJR湖西線「雄琴駅」が「おごと温泉駅」へ改称した。温泉イメージを訴求することを目的に3万2000人の署名を集め、5年間にわたる働きかけが結実したのだ。

ここまで頑張れた原動力は何かと問うと「必死にならなければ生き残れなかった」と針谷氏は言う。「経営者は週に100時間働くことだと思っています。週に100時間以上働いてこそ努力と呼べる。それで駄目ならもう仕方ない。これでもかこれでもかというほど勉強して、チャレンジすることだと思っています」

湯元舘はいち早く団体客向けから個人客向けにシフトした。琵琶湖が一望できる開放感あふれる露天風呂も目玉の1つ

※本ページの内容は取材当時のものです。

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