ここにこの人あり

海軍グルメブームをプロデュース
立役者は商店街の"おかみさん"

まだご当地グルメという言葉もなかった頃、「海軍グルメ」を町おこしの起爆剤としてプロデュース。その立役者は、京都・舞鶴にある金物屋のおかみさんだ。行政や補助金に頼らず、知恵と行動力で地元を盛り上げるべく奮闘する。
広報誌「日本公庫つなぐ」16号でもご紹介しております。

京都府中小企業女性中央会 会長 伊庭 節子氏

京都府中小企業女性中央会 会長
伊庭 節子(いば せつこ)

1948年京都府舞鶴市生まれ。71年同志社大学卒業と同時に家業の丸二金物に入る。91年八島おかみさん会を設立し、現在まで会長を務める。95年まいづる肉じゃがまつり実行委員会の設立に参画、東郷平八郎が作らせたとされる肉じゃがの味を再現する。2003年から実行委員会会長兼料理長に就任。この他、NPO法人まいづるネットワークの会理事長、舞鶴観光ガイドボランティアけやきの会会長、京都府中小企業女性中央会(愛称:きょうとMOCO)会長なども歴任。

2018年11月4日、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の旧軍港4市が集まる第19回「旧軍港四市グルメ交流会」が開催された。海軍カレーやビーフシチューなど海軍ゆかりのメニューが並び、大勢の人でにぎわう中、その中心にいたのが、伊庭節子氏だ。

舞鶴市の八島商店街にある丸二金物のおかみさんで、「まいづる肉じゃがまつり実行委員会」の会長を務める。市内の海上自衛隊に残る肉じゃがのレシピから往時の味を再現。1995年に地元住民で委員会を立ち上げ、「肉じゃが発祥の地」の名乗りを上げた。ご当地グルメという言葉がまだない頃だ。

その2年後に呉市が「うちが本家だ」と猛烈アピールし、「肉じゃが論争」が勃発。これがマスコミに取り上げられ、注目を集めた。料理長の白い正装に身を包んだ伊庭氏が「舞鶴のまねをするな」と怒れば、呉の代表者も軍服姿で負けじと反論する。「ただ一緒に頑張りましょう、では盛り上がりに欠けるので、あえてライバル関係を強調した。リーダーには遊び心も必要です。本当は仲がいいんですけどね」と伊庭氏は言う。

くしくも舞鶴も呉も旧軍港。どうせなら残る旧軍港の横須賀市と佐世保市まで巻き込み、海軍グルメで町おこしをできないか、委員会で検討を重ねた。その後、横須賀が「海軍カレー」、佐世保が「ビーフシチューとハンバーガー」を掲げ、旧軍港4市の海軍グルメがそろった。99年に舞鶴で調印式を実施し、四市共に海軍グルメで町おこしをすると宣言。以後、冒頭のグルメ交流会が始まった。

「旧軍港四市は2016年に日本遺産に認定され、互いに連携し、国内外に四市の魅力を発信することを目指している。これも海軍グルメを通じた交流があったからこそ実現したと思う」

旧軍港四市グルメ交流会は、1999年から毎年4市が持ち回りで開催。今年も舞鶴と呉の両ブースで激しいPR合戦が繰り広げられた

伊庭氏は70店が軒を連ねる八島商店街で育った。家業の丸二金物は祖父・益三氏が1921年(大正10年)に創業。その後、父が引き継ぎ、今は伊庭氏の夫、八郎氏が社長を務めている。大学卒業と同時に伊庭氏は家業に入った。従業員は10人。「金物店ぐらい簡単にできる」と思っていたが、生真面目に取り組みすぎたのかうまくいかない。72年に八郎氏と結婚し、子供が3人生まれても好転せず、主婦も母も完璧にやりたいという気持ちも空回りして十数年間ずっと体調不良だったという。

転機は35歳の時。「娘たちの母親は私しかいない。それを大切にすれば、他のことはできなくてもいい。肩肘を張らずにできることから取り組もう。そう思ったら、自然と前向きになれた」

それからは今まで敬遠していた地域婦人会やPTAの役員も引き受けた。「知り合いができて、買い物に来てくれる人が増えた。外へ出て人と関わることで、さらに自分を見つめ直せた」

旧軍港四市グルメ交流会は、1999年から毎年4市が持ち回りで開催。今年も舞鶴と呉の両ブースで激しいPR合戦が繰り広げられた

行政や企業に頼らず、自分で考えてまず行動

そんな時、商店街の女性が集められ、浅草おかみさん会の富永照子会長の講演を聞く。91年3月のことだ。大規模小売店舗法の運用が緩和され、商店街の近くに大型店が進出し、地域全体が危機感に包まれていた頃だ。

「店の奥でじっとしているのが奥さん、自分で考えて行動するのがおかみさん」。そんな富永会長の言葉に発奮し、翌日、「八島おかみさん会」を30人で発足。2番目に若い伊庭氏が会長になった。「行政や企業との連携は必要だが、補助金を当てにしてはいけない」という富永会長の言葉を肝に銘じ、手弁当で始めた。

「みんなの耳になろう、足になろう」といろんな勉強会に参加して、いいと思ったことを会報に書いて、会員などに配るところからスタートしたという。その後、休憩所の設置や観光マップづくりにも取り組んだ。次第に、商店街の男性や行政の支援も受けられるようになった。

八島おかみさん会の会報。20年発行し続けた。市長や商工会議所にも届け、「あんたの言うとおりや」と言われたことも

何より良かったのは、活動を通じておかみさんたちに自信が芽生えたことだ。「初めはみんな自分の店のことだけを考えていたが、商店街全体が元気にならなかったら駄目だと気づいた。さらに商店街だけではなく、地域全体、舞鶴全体が元気にならなかったら先には進めないと、どんどん視野が広がっていった」

連携の輪は急速に広がっていった。商店だけではなく、他の業種、一般の市民ともつながりたいと考え、2001年に「舞鶴市女性センターネットワークの会」(11年に「NPO法人まいづるネットワークの会」に改称)を設立。理事長を務め、「男女共同参画でまちを住みやすく」を理念として、就業支援や子育て支援、環境保全などを手掛けている。さらに、伊庭氏は舞鶴観光ガイドボランティアけやきの会の会長としても精力的に活動中だ。

伊庭氏のエネルギーは今なお衰えない。「周りから『いろんなことするね』って言われるんやけど。私がちょっと動いたことで意識が変わる人がいたり、住みやすい街になったり、楽しくなったりしたらいいなと思っているだけ。みんなが喜んでくれるのがうれしくて、ついつい頑張ってしまうんです」

八島おかみさん会の会報。20年発行し続けた。市長や商工会議所にも届け、「あんたの言うとおりや」と言われたことも

※本ページの内容は取材当時のものです。

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