ここにこの人あり

働きやすさこそ、成長の源
人を育て、泉のように伊賀を潤す

三重県伊賀市。中外医薬生産株式会社は、この歴史ある城下町で、大正時代から続く医薬品メーカーだ。昔ながらの商慣習に縛られ、苦境に陥っていた家業を救ったのは、元鉄鋼マンの3代目社長で現在は会長の田山雅敏氏。事業の発展と共に労働環境の改善にも努め、ふるさとの振興を願って奮戦してきた田山氏の想いに迫る。
広報誌「日本公庫つなぐ」29号でもご紹介しております。

中外医薬生産株式会社 代表取締役会長 田山 雅敏氏

中外医薬生産株式会社 代表取締役会長
田山 雅敏(たやま まさとし)

1951年、三重県伊賀市生まれ。上智大学経済学部から株式会社神戸製鋼所に入社。1987年に帰郷し、中外医薬生産株式会社に入社。1990年に代表取締役社長就任後、ドラッグストアとの取引拡大とOEM受注で業績を伸ばす。2022年に事業を承継し代表取締役会長に就任。現在は上野商工会議所会頭など、地域振興の要職を担っている。

三重県伊賀市。伊賀上野の城下町であり、伊賀流忍者の里、松尾芭蕉生誕の地という観光の目玉を持つ同市は、京都・奈良・滋賀と隣接し、交通の要衝としても栄えてきた。中外医薬生産株式会社は、この町で1919年に創業し、創業100年を超える老舗企業だ。

「創業者である曽祖父、2代目で営業を担当していた父と、薬剤師として開発を受け持っていた母の時代までは、自社製品を町の薬局に卸す小さな直販メーカーでした。現在のようにOEMに力を入れるようになったのは、私が社長になってからです」と語る3代目社長の田山雅敏氏は、現在同社の代表取締役会長であり、上野商工会議所の会頭も務める。

今や地域をけん引するリーダーとなった田山氏だが、実は幼い頃から都会に憧れ、大学卒業後は鉄鋼大手である神戸製鋼所に就職。東京で結婚し、家庭を築いていたという。

そんな田山氏が故郷に帰ることを決断したのは、日本がバブル景気に沸く1987年のことだった。

旧態依然とした業界にがくぜん 抜本的な経営改革を決意

「仕事も家庭も順調だった東京から、伊賀に帰って家業を継いだ理由をあえて言うなら、母からの強い要請と、社員への責任感でしょうか。

当社はもともと母方の家業で、養子に入った父と母が二本柱で経営していました。本来2代目にと期待されていた祖父はビジネスに全く関心のない文化人だったそうで、代わりに母に薬学を学ばせて跡を継がせたわけです」

女性は結婚したら家庭に入ることが多かった時代、母が仕事と育児を両立して守った家業であり、地域の人々の雇用の場となってきた会社である。また田山氏は承継前から〝年に一度の株主総会だけは出席するように〟と言われており、そこで社員たちが抱く先行きへの不安を感じ取っていたという。

やはり自分が継がなくては...と覚悟して帰郷したものの、経営実態を目の当たりにした田山氏は、がくぜんとすることになる。

1970年代、開発部門で働く薬剤師の姿。男手がない戦時中は地元の女性が多数活躍しており、女性の力を尊重する社風が早くからあった

その頃の医薬品メーカーは、自社製品を持ったセールスマンが津々浦々の薬局を訪問し、取り扱いを委託して販売してもらうのがならいだった。

さらに、医薬品業界には〝再販売価格維持制度〟があり、メーカー側が販売価格を指定できる代わりに、小売店は売れた分だけ代金を支払い、余れば返品ができた。この制度は徐々に廃止の流れになっていくが、業界の慣習としてはまだ色濃く残っていたという。

「私は異業種から転職してきたので、余計に違和感がありました。製造はともかく、流通方法が非効率過ぎるし、いつ、どれだけの販売収益が入ってくるか予測がつかない。これでは事業計画の立てようがありません。

期日が来たら、納品した分をきちんと支払いしてくれる。そういう当たり前の取引ができるパートナーを早急に探さなくてはと痛感しました」

そこで田山氏が着目したのが、流通網の整備に伴って台頭しつつあった、ドラッグストアという販売形態だ。

1970年代、開発部門で働く薬剤師の姿。男手がない戦時中は地元の女性が多数活躍しており、女性の力を尊重する社風が早くからあった

ドラッグストア展開の勢いに乗り事業が急拡大

急速にチェーン展開を進めるドラッグストアの本部と契約を結べば、流通や販売促進コストを削減しつつ、大きな売上が見込める。売上は納品した数量で決まり、返品は受け付けない。その代わりドラッグストア側は、大量契約の分、安価に仕入れられる。まさにウィンウィンというわけだ。

田山氏の狙いは、見事に当たった。自社製品の取り扱いから始まったドラッグストアとの付き合いは、ここから急速に拡大していくことになる。

「ドラッグストアから、『大手メーカー品よりも利益率の高いオリジナルの製品を作りたい』と、度々相談を受けるようになりました。

市販薬は、効能が同じならばどのメーカーでも似たような原料と製法を用いています。当社には、その要望に応えられる設備とノウハウがありました」

単なる下請けではなく対等なパートナーとして

社長就任から7年後の1997年、高まる需要に応えるため、同社はそれまで伊賀上野城近くにあった本社と工場を、伊賀市郊外のゆめが丘(ゆめぽりす伊賀クリエイトランド)に全面移転する。

「製造効率はもちろん、景観などにも配慮した工場にしたかったので、創業以来の大きな投資になりました。その際、日本公庫が真っ先に融資を決めてくれたおかげで、他の金融機関も賛同してくれました」

田山氏が懐かしげに振り返る工場移転のきっかけとなったのは、現在も同社の主力製品である、液状胃腸薬のOEM受注だった。

「ドラッグストアとの取引が拡大し、薬局との取引の整理もついて、経営が安定してきた頃でした。隣県の大手メーカーが、錠剤タイプの胃腸薬を基に液状胃腸薬を開発しているという話を耳にして、当社でその製造をできないかと考えたのです」

田山氏は〝これは売れる!〟と直感した。もともとは評判のいいロングセラーの胃腸薬。しかも液状胃腸薬というのは、それまで別の大手1社しか販売していなかったからだ。しかし、肝心のメーカー側は、あまり自信がなさそうだったという。

伊賀市ゆめが丘の本社工場。現在第三工場まで増設され、さらに新工場の稼働準備が進む

その理由が、生薬が沈殿してしまうため、複数回に分けて飲む必要があるからだと聞いた田山氏は、開発陣と共に課題解決に挑む。

「1回で服用することができるように、生薬をより細かく粉砕して沈殿しにくくし、ボトルを振ればすぐに溶ける形状を提案したところ、メーカーにも気に入っていただけました。

苦労しましたが、いざ販売したら爆発的な大ヒット。あまりの発注量に、ロジスティクス機能の抜本的強化が必要となりました。それで、思い切って本社と工場を郊外に移転したわけです」

この製品は、今では誰もが知る定番薬に成長した。新たなシリーズが発売される際にも、開発段階から関わっているという。

ドラッグストアと手を組んだときもそうだったが、単なる取引先や下請けではなく、優れた技術力を持つ対等なパートナーとなることで、同社は成長してきたのだ。

伊賀市ゆめが丘の本社工場。現在第三工場まで増設され、さらに新工場の稼働準備が進む

誰もが働きやすい環境づくりで暮らしを守り、未来につなぐ

かくして順調に業績を伸ばしてきた同社を、田山氏は昨年、元銀行マンの長男・林太郎氏に託した。さらに、薬学部で学び、大手製薬会社に勤めていた次男も戻ってきて研究開発部門の責任者を務めており、次代への承継は順風満帆といえるだろう。

現在は、主に上野商工会議所会頭の業務に注力している田山氏だが、自社の未来への希望を込めて紹介してくれた場所がある。

「今春完成したみどりヶ丘第二工場は、解熱剤やアルコール消毒液などを作る新拠点です。先進機器を備えた製造ラインはもちろんですが、社員が気持ち良く働けるよう、福利厚生にもこだわりました」

案内された新工場の舞台裏は、ホテルのような充実ぶりだった。通称「天空のトイレ」と呼ばれる男性用トイレは、見晴らしが良く爽快だ。女性用トイレは北欧風の内装で、ライトで囲まれた「女優ミラー」が設置されている。医薬品を製造するため、就業中は化粧をすることはできないが、メイクをして気分良くオフタイムを楽しめるようになっている。

その他にもカフェ風の休憩室など、随所に配慮や遊び心のある新工場の計画は、田山氏と新社長である林太郎氏が、社員の希望を取り入れながら進めたという。

「会長も社長も、社員の声をとてもよく聴いてくれます。だからみんな、気軽にアイデアを伝えられる」と、ガイド役の女性社員も誇らしげだ。

「薬剤師である母の姿を見て育ちましたから、女性を尊重し、頼りにする社風はもともとありますね。でもこれは女性に限った話ではありません。シニア人材や障がいのある方も積極的に採用し、誰もが働きやすい環境づくりを行っていますから。

誰もが働きやすい職場であれば、生産性が上がるし、離職で人材不足に悩むこともない。要するに、会社の未来への投資なのです」

男女問わず有給休暇・育児休暇の取得を推奨していることはもちろん、育児中の女性向けに1日の勤務を6時間と定める制度を設けるなど、柔軟な働き方でキャリアを形成できる同社の取組みは、国や県から数々の表彰を受けている。

利益を広く還元し伊賀の未来を豊かなものに

同社が掲げる経営理念は「品質は礎」「人は財産」「利益は泉」。良いものを作るために人を大切にし、生まれた利益で泉のように地域を潤す。

そんな経営を実践してきた田山氏が、今最も危惧している問題は、地域と若者たちの未来だ。

かつて伊賀の専門高校を卒業した若者の多くは、地元で就職した。しかし、現在はほとんどが大都市圏で就職し、地元にはなかなか残ってくれないという。

「自分も一度は都会に出た身ですが、帰ってきて改めて、伊賀の良さ、美しさを感じています。この町でのびのびと働いて、ちゃんと家族を養える。そう思える企業がたくさんあれば、若者は伊賀に根付き、優秀な人材も集まるでしょう。

地域振興や女性活躍など、革新的な経営を高く評価される同社。ドラッグストアで見かける人気商品が、多数この町で作られている

当社では近年、地元の大学などで学んだ優秀な学生を積極的に雇用していますが、この取組みは産学官連携などさまざまな形で、当社にも地域にも良い成果を生み出しています。

こうしたチャレンジを続けるためにも、企業はもっと稼がなくては。社長には業績を伸ばす努力をしてもらい、社員と地域に還元してほしい」

その言葉を裏付けるように、同社では社員に対し、売上、利益などの情報は全て公開している。透明性の高い経営をすることで、自分の働きが会社にどう関わっているのかを、社員たちに考えてほしいからだ。

「企業が成長するのは、刻々と変わる状況や環境に、柔軟に、大胆に決断し対応できたとき。その決断こそが経営者の役割で、あとは社員をどれだけ幸せにできるかです」

地域をけん引する企業として、働く人を大切にする田山氏の想いは、しっかりと次代に引き継がれ、伊賀の町を潤していく。

地域振興や女性活躍など、革新的な経営を高く評価される同社。ドラッグストアで見かける人気商品が、多数この町で作られている

※本ページの内容は取材当時のものです。

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