ここにこの人あり

「ゼロからプラス」へ。大逆転の経験を糧に
愛着の地の繁栄と、震災復興の一翼を担う

岐阜県南部の田園地帯で、全国にファンを持つ機能性タオルを製造する浅野撚糸株式会社。第二の生産拠点として、福島県双葉町に進出し、「震災からの復興に貢献したい」と願う同社のビジョンを、浅野雅己社長に伺った。
広報誌「日本公庫つなぐ」27号でもご紹介しております。

浅野撚糸株式会社 代表取締役社長 浅野 雅己氏

浅野撚糸株式会社 代表取締役社長
浅野 雅己(あさの まさみ)

1960年、岐阜県安八町生まれ。福島大学教育学部卒。小・中学校にて教員を勤めた後、父が創業した浅野撚糸株式会社に1987年入社。1995年、同社社長に就任。「エアーかおる」などのヒット商品を開発する。現在、東日本大震災からの復興を目指す福島県双葉町への新工場開設に向け、精力的に活動中。

「被災地に人が帰ってくるためには、仕事が必要です。働き、稼ぎ、暮らす、その拠点となることを願って、双葉町への新工場建設を進めています。東日本大震災から11年。ようやく始まった帰還計画に貢献し、双葉町復興のシンボルになれたらと願っています」。そう語る表情はにこやかだが、瞳の奥にはどこかすごみがある。

繊維どころ岐阜で1967年に創業された浅野撚糸株式会社。浅野雅己氏(62)は、その二代目の代表取締役社長だ。日米繊維規制、オイルショック、プラザ合意といった幾多の苦難を乗り越える父(故・博氏)の姿を見てきた浅野氏には、一つの原風景がある。高校時代に濃尾平野を襲った1976年の長良川水害だ。

「撚糸とは文字通り、糸にりをかける技術。機械も原料となる生糸も、決壊した堤防から流れ込んだ泥水に漬かってしまった。損害は億単位だったと聞いています。

しかし父は『会社はつぶれるかもしれない。でも家族が元気なら大丈夫!』と前向きに再建に取り組んだ。わが親ながらかっこいいなと、憧れたのを覚えています」

そんな思いから、少年時代の浅野氏には二つの夢が生まれた。一つは社長になること。そしてもう一つが、得意だった体育の先生になることだ。

大学進学当時、すでに繊維業は斜陽期で、会社を継げとは言われなかった。ならば教師の夢をかなえようと、浅野氏は専門性の高い、体育教員養成課程のある福島大学教育学部に進学する。

卒業後、小・中学校で教員を勤めていた浅野氏は、長年父を支えてきた母が健康を損ねたのをきっかけに27歳の時に教職を辞して入社し、35歳で社長となり事業を引き継いだ。

以来25年以上の歳月を経て、「かけがえのない青春の日々だった」と振り返る福島と再びつながった縁に、運命のようなものを感じているという。

体育教師と社長。そして福島と岐阜。二つの夢と愛着の地をつないだのは"スーパーZERO®"浅野撚糸が特許を持つ、魔法の撚糸だ。

オンリーワンの技術で下請け脱却を目指して

「社長に就任してからは、より独自性のある複合撚糸の研究に打ち込みました。1999年にはゴムと綿糸を撚り合わせたストレッチ糸の開発に成功し、大ヒット。創業以来最高の売上高を記録しました」

だが2000年代に入ると、市場は安価な海外製品に席巻され、一転、倒産の危機にひんする。事業存続のため、リストラや協力工場との契約解除に踏み切ったことは、浅野氏にとって今なお悔いの残る記憶だ。

しかしこの苦い経験を経て浅野撚糸は"オンリーワン技術で下請け脱却"を目指し、方針を転換する。その飛躍の原動力となったのが、前述した"スーパーZERO®"の誕生だ。

綿糸と水溶性の糸を撚り、その後水溶性の糸だけを溶かすことで、通常の1.6倍に膨らむこの糸の開発には約3年かかった。「軽くて柔らかく、たっぷりと空気を含むこの糸で、ゼロからプラスにはいあがろう」そんな願いを込めた命名だったという。

「この糸で織ったタオルの試作品を持って、懸命に営業をかけました。しかし当時、タオルはもらうのが当たり前。いくら質がよくても1枚千円もするタオルの販売ルートはなかなか見つかりませんでした。半ば諦めかけていた時、勇気をくれたのが妻だったのです」

その日も空振りに終わった営業に、疲れ果てて入った築地のすし屋。内心では廃業も覚悟していた浅野氏に、同行していた妻の真美さんは、舌鼓を打ちながら「いつかこの店に、社員みんなを連れて来たいね」と言った。

「その瞬間、決意しました。もう問屋や小売店には頼らない。自社のブランドとして、自ら販売しようと」

撚糸という原料の製造業者から、消費者に直接商品を届けるメーカーへ。本当の意味での"下請け脱却"の覚悟が決まった夜だった。

タオルの常識を変えた「エアーかおる」の大ヒット

福島県双葉町と共同開発した、エアーかおるシリーズの「ダキシメテフタバ」も販売

浅野撚糸の快進撃は、ここから始まった。

"スーパーZERO®"で織った高級タオルを「エアーかおる」と名付け、妻の横顔をロゴに採用して2007年に発売すると、肌への優しさ、柔らかさを求める女性たちの間で話題となる。地元メディアでの報道や、地道に続けた展示会への出展も奏功し、人気・認知度は急上昇。以来、シリーズ累計で1400万枚を超える大ヒット商品へと成長し、業績はV字回復した。

「近くに安八スマートインターチェンジができ、コロナ禍前には国内外から多くの観光客がバスで乗り付けてくれました。ただ周りは田んぼが広がるばかりで、買い物以外の娯楽がない。そこで会社設立50周年を機に、お客様がより楽しめる観光スポットにしようと、本社・工場・直営店・創業家本宅・日本庭園を含めた旗艦店『エアーかおる本丸』を整備しました」

「エアーかおる本丸」は、お客様と触れ合う販売の最前線。そして尊敬する父にささげる、浅野撚糸の歩みと魅力を発信する、地域の名所になった。

福島県双葉町と共同開発した、エアーかおるシリーズの「ダキシメテフタバ」も販売

復興のシンボルとして、双葉町から世界に挑む

現在浅野氏は、福島県双葉町で30億円を投じる新工場建設プロジェクトを進めている。

そのきっかけとなったのは2019年。経済産業省"繊維の将来を考える会"のメンバーとして、国と県から共に被災地の振興策を考えたいと要請されたことだった。

双葉町では、帰宅困難エリアの指定解除を2022年に予定しており、住民帰還後の雇用創出のため、新たな工業団地を開設し、企業誘致を進めようとしていた。

「青春時代を過ごした福島には、深い思い入れがあります。一方で、東日本大震災当時には、何もできなかったという自責の念がずっとありました」

2019年7月に初めて双葉町を訪問し、日が沈んでも明かりがともらない町並みを見た浅野氏は、この家や町は、人々が帰ってくるのを待っていると感じたという。そして、今こそ思い出の地に何か恩返しをしようと同町への進出を決意したのだ。

新工場が、これから復興していこうとする町のシンボルとなるような、産業と雇用創出の拠点になればと浅野氏は考えた。

「本格稼働の暁には30人以上の雇用を見込み、すでに近隣の学生との面接なども行い、大学新卒1人、高校新卒4人の5人の採用が内定しています。意欲的な若者たちからもらった、『福島に来てくれてありがとう』という言葉には、こちらも勇気づけられました。岐阜からも高校新卒4人を含む8人の若者と6人の熟練スタッフ計16人を送り込み、世界市場を見据えた生産拠点へと育て上げたい」と、浅野氏はどこまでも前向きだ。

福島県双葉町に建設中の「浅野撚糸フタバスーパーゼロミル」。2023年4月22日の稼働を目指す

敷地面積約2万8千平方メートルを誇る工場では見学者も受け入れ、エアーかおる双葉旗艦店を併設。雇用と観光の両輪で、町の復興に貢献できる施設を目指す。まさに社運を託す地として、浅野氏は双葉町を選んだのだ。

「町を案内してくれた双葉町長たちも、一時は心が折れそうになったそうです。でも当時の復興大臣に『ひどいことがあったら、より良くして立ち上がる。それが日本のDNAだ』と言われ、奮起した。こういう思いを持った人たちと、大きな仕事をする機会は、きっと一生に一度です。やらずに後悔したくないし、失敗しても名は残る」

朗らかに笑いながらも、熱い心と冷静な経営判断をもって、浅野氏は双葉町と共に未来を歩む覚悟だ。

福島県双葉町に建設中の「浅野撚糸フタバスーパーゼロミル」。2023年4月22日の稼働を目指す

※本ページの内容は取材当時のものです。

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