ここにこの人あり

単身タイに乗り込み25年
地元有力企業へ成長させた3代目

経営や現場を知らないどころか、社会人経験わずか2年という24歳の若者が、父からの命を受け、単身タイに乗り込んだのは今から25年前。今や従業員900人の地元に根付く有力企業にまで成長。若さとあふれるエネルギーが最大の武器になった。
広報誌「日本公庫つなぐ」19号でもご紹介しております。

KORAT MATSUSHITA CO., LTD.(コラート松下) 社長 松下 紘審氏

KORAT MATSUSHITA CO., LTD.(コラート松下) 社長
松下 紘審(まつした ひろし)

1970年山梨県生まれ。国立東京工業高等専門学校卒業後、渡米。バーモント州のグリーンマウンテンカレッジを中退し、92年父が経営する松下製作所に入社。95年タイにコラート松下を設立、25歳で社長に就任。その後、順調に業容を拡大し、当初5人だった従業員は今や900人まで増加。現在は精密機械金型製作・プレス加工のほか、顧客の要望に応え、松下製作所では手掛けていないコイルスプリングや板金加工、各種機構部品加工なども請け負う。

「タイに来た頃、右も左も分からず、失敗や失礼なことをたくさんしたと思います。それでも『20代の若造じゃしょうがないな』と周りの人がフォローしてくれたおかげでここまでこられました」。そう感慨深げに話すのは、コラート松下の松下紘審ひろし社長だ。

コラート松下の親会社は、松下氏の祖父が1959年に創業した山梨県笛吹市の株式会社松下製作所。精密金型製作・プレス加工などを手掛ける。現在は父の慶麿よしまろ氏が会長、弟の清人きよひと氏が社長を務めている。

松下氏は幼い頃から「後継ぎ」と呼ばれて育った。後継者の自覚はぼんやりあったものの、高専卒業後は米国へ留学。帰国後、就職氷河期で定職に就かずにいると、父から松下製作所への入社を促される。そして92年から2年間、金型製作に従事した後、単身タイに飛ぶ。父がタイへの進出を決めたからだ。

当時は1ドル80円の超円高。大手企業は次々と生産拠点を海外に移していた。海外に仕事があるなら我々も海外へ行こうと欧州、米国、アジアを視察。最終的に仏教徒が多く、心情的に日本人に近い部分があるタイに決めた。

立ち上げ役を父から任された松下氏は、その時点で社会人経験は2年だけ。タイ語も話せなかったが、「全く抵抗はなかった」という。工業団地や現地の日系企業を回り、話を聞いた。何も知らないことが、かえって強みになった。どんなところにも躊躇ちゅうちょなく飛び込んでいくことができたからだ。

無事役目を果たし、95年にコラート松下を設立。松下氏は25歳でトップに就任した。経営も現場も満足に知らない。父から言われたのは「会社の金と自分の金を公私混同するな」「周りから後ろ指をさされるようなことはするな」の2つだけだった。

タイ東北部最大の都市コラートにあるコラート松下の工場。敷地面積は10万4000m²。広さは東京ドーム約2個分

とりあえずイエローページで調べてめぼしい企業に電話をかけ、営業に出掛けた。当時の月商は数十万円程度。それでも地道な活動を続けていくうちに、少しずつ仕事が入るようになった。徐々に軌道に乗り、余裕が出てきたのは工場操業から5、6年後。「ただ無我夢中で走り続けた毎日だったが、すごく楽しかった」

アジア通貨危機やリーマン・ショックなどを乗り越え、コラート松下は業容を拡大。低価格・高品質なものづくりがそれを支えたのは言うまでもないが、松下氏は「日本に相談せずに決められる」意思決定の速さを理由に挙げる。

「(海外進出のための)投資金額は決して少なくなかったと思うが、父は売り上げがどうとか、儲かっているかとか、一度も言ってこなかった。だから自由にのびのびできました。父がたまに『コラート松下のおかげで、松下製作所も存続できている』と言ってくれることが励みになっています」

タイ東北部最大の都市コラートにあるコラート松下の工場。敷地面積は10万4000m²。広さは東京ドーム約2個分

タイの従業員たちが大好き ハッピーにしてあげたい

タイは親日国とはいえ、日本とまるで同じとはいかない。タイにはブラック企業という概念はない。嫌だったら翌日から会社に来ないからだ。タイ人は会社へのロイヤルティーがないが、人に対するロイヤルティーは強いという。長く気持ちよく働いてもらうためには、松下氏自身が「この人についていく」と思われる存在になる必要がある。

そのためには「タイ語で話すこと」が一番だ。松下氏は最初の2年間、通訳を介して会話していた。だが、その通訳が辞めて以後は直接タイ人とタイ語で話すようにした。「タイ人も言葉を尽くして話せば分かってくれる」

タイに来たばかりの頃、同じアパートに住む大学生が毎晩のように酒盛りをしていた。松下氏はその輪の中に入れてもらい言葉を覚えた。「僕のタイ語は相当荒っぽい口調だったらしく、目上の人にタメ口で話していたよう。後で指摘されて赤面しました」

毎年、年末の最終勤務日に社内パーティーを開催している。工場敷地内に特設ステージを用意。生バンドの演奏で踊るのが恒例

松下氏と従業員の距離は近い。先週は総勢500人で「タイの軽井沢」カオヤイに社員旅行に出掛けた。年末のパーティーも社員が楽しみにしている恒例イベントだ。「出し物がすごい。『一体いつ練習したの?まさか仕事中じゃないよね』と聞きたくなるくらい」と笑う。どちらも15年ほど前から続けている。また、勤続10周年を迎えた従業員には日本旅行をプレゼントしている。日本3泊、機中2泊の強行軍ながら社員には好評で、モチベーション向上につながっているという。

最近は取引先の日系企業も含めて、社歴の長いタイ人が増えてきた。「タイ人同士で仕事が始まり、進んで、クローズしているのを見るとうれしい。僕がそうだったように、思い切って任せれば勝手に育つ」

タイに来て25年。日本の親会社に戻る意思はない。「ちょっと照れくさいけど、うちの従業員のタイ人たちがすごく好きなんですよね。だから『ここで働いていてよかった』と思ってもらえるような会社にしたいし、彼らをハッピーにしたい。それが僕の一番の目標です」

毎年、年末の最終勤務日に社内パーティーを開催している。工場敷地内に特設ステージを用意。生バンドの演奏で踊るのが恒例

※本ページの内容は取材当時のものです。

ページの先頭へ