貴之さんが事業を継いだのは、2023年のことだ。高齢になった洋子さんから、事業の今後について相談されたのがきっかけだった。話を聞くと、いつかは事業をたたもうと思うが、数百人の固定客がいるためいつまで続けるべきか悩んでいるという。愛用してくれている人がこれほどいるのに、やめてしまうのは惜しい。そう考えた貴之さんは、思い切った決断を下す。当時、ブライダル関連のITサービス会社を経営していたが、経営に物足りなさを感じ始めていたこともあり、会社を売却して洋子さんの事業を引き継ぐことにした。
この頃には、大手のバス用品メーカーもコールドプロセス製法によるせっけんの製造に乗り出すようになっていた。製法だけでは戦えないと感じた貴之さんは、新たなせっけんを開発し、これまで力を入れてこなかったブランディングに取り組んで、顧客層を広げようと考えた。
ターゲットは、既存の顧客に多い50歳代ではなく、30~40歳代の女性に決めた。スキンケア製品を選ぶ基準について年代別にリサーチすると、ブランドの知名度よりも成分や品質を重視する傾向が強いことがわかり、原料にこだわった品質の高い商品を提供する同社のスタンスに合っていると考えたのだ。
ここに、既存の商品にはない価値を加えられないか。考えたのが、従来の「肌質に合わせて選べる」に加えて、「気分に合わせて選べる」というコンセプトだ。30~40歳代は、職場では上司としての役割を任され始める一方で、部下としての役割も求められる年代である。プライベートでは結婚や出産を経験する人もおり、妻や母といった役割もある。期待される役割をいくつももつ人たちが、そのときの気分に合わせて選んだせっけんで洗顔し、そうした役割から解放されたような気分になれる、そんなメッセージを商品に乗せることにした。貴之さん自身もターゲット層と同年代であり、仕事や家庭で役割をもち始める友人の姿が発想のヒントになった。
洗面台の前に立つたびに、心がほぐれ、肩の荷が下りるかのような喜びを演出したい。そのためにこだわったのは、デザインと香りだ。CAMPHRIERの製法をベースに、置いているだけでも心が安らぐようなアーティスティックなデザインと、リラックスできる香りを併せもつせっけんを目指した。熟成させる過程で色や香りが変化してしまうこともあり、配合を調整しながら何度もつくり直して完成させた。
こうして出来上がったブランドが「mue」である。模様や香り、込められたメッセージが異なる7種類の商品をそろえた。例えば、「signpost」(道しるべ)は、落ち着いた青色のマーブル模様のデザインで、草原をイメージしたさわやかな香りのせっけんだ。悩みを抱え立ち止まってしまった自分を洗い流し、再び歩き出せるように、というメッセージが込められている。「dawn」(夜明け)は、オレンジ色のグラデーションのデザインに、マンダリンオレンジのすっきりとした香りを配合しており、心地良い朝の目覚めを助けるせっけんである。