ここにこの人あり

遠い故郷から文化の壁乗り越えて
ベトナムと日本を人材でつなぐ

ベトナムからやって来た岡本進太郎(旧名ファム・ヴァン・トイ)氏は当初、日本人との文化的な違いに悩み帰国も考えた。それを克服した経験が、ベトナム人材の企業への紹介から定着の世話まで行うヒューマンサポートジャパン創業の背景にあった。社長として目指すのは、日本とベトナムの架け橋になることである。故郷の農村で育った純朴な性格そのまま、本社を置く島根県江津(ごうつ)市で地元の協力も得て、日本への貢献に余念がない。
広報誌「日本公庫つなぐ」36号でもご紹介しております。

株式会社ヒューマンサポートジャパン 代表取締役社長 岡本 進太郎氏

株式会社ヒューマンサポートジャパン 代表取締役社長
岡本 進太郎(おかもと しんたろう)

1983年、ベトナム・ハノイ近郊の農村で生まれる。ハノイ農業大学(現・ベトナム国家農業大学)卒業後、2008年に技術者として来日。カルチャーショックを経て外国人材支援を志し、2013年にベトナムに日本語学校を設立、約400人を日本に送り出す。2017年に仲間と株式会社ヒューマンサポートジャパンを創業し、2022年日本国籍取得。本社を島根県江津市に移し、地域に根差した外国人材定着支援や国際交流活動を展開している。

カルチャーショックに負けず「日本人をどんどん好きに」

後に岡本進太郎となるファム・ヴァン・トイ氏がベトナムから日本に来たのは2008年2月だった。前年の3月に入社した日系企業から本社勤務を命じられたためである。当時24歳、大卒技術者として採用されて、自動車のバンパーやフェンダーなどの外装部品を設計する仕事に就いていた。

会社は日本の大手自動車メーカー子会社のベトナムの現地法人である。

日本語を6カ月勉強して入社したが、苦労した。「日本語は難しいですね。日本人の上司との意思の疎通に骨を折りましたが、上司が理解してくれて、3カ月くらいたつと仕事が楽しくなりました」。笑みを絶やさずに語る表情に穏やかな人柄がうかがえる。

日本で勤務する神奈川県厚木市の本社の様子は、テレビ会議である程度知っていたので、何も不安はなかった。

ところが「来てすぐショックを受けました」と言う。「同僚たちは大変親切で、職場ではにこやかに話しかけてくれたのですが、帰りに会社を出ると、よそよそしくてあいさつしても返事もない。さっきまであんなに仲良くしていたのに、びっくりしました。冷たいなと思って心が折れました」。ベトナムの農村で濃密な人間関係の中で育ったトイ氏には、都市化された日本人の他人と距離を置く付き合い方が、異様に感じられたのかもしれない。

「ベトナムでの上司に連絡して『ここは私には合わないので戻りたい』と訴えました」。その翌日「たぶんベトナム側から本社に『トイ君には会社の外でも笑顔で接してください』との要請が来たのだと思います。皆さんが気をつかってくれるようになりました」。しかしわだかまりはすぐには消えない。「急に変わったのは、指示されたからではないか」と思ったそうだ。

トイ氏の気持ちを解きほぐしたのは、近くの農家との付き合いだった。休みに畑に出かけて手伝いをした。農家の出身なので、土のにおいに癒やされる。「おじいさんやおばあさんの農作業を手伝うと、すごく喜ばれました。野菜もいっぱいくれるんです。日本にはこんなに温かい人たちがいると分かり、少しずつ気を取り直しました」

平静になれば、日本人を客観的に見られるようになる。「日本の人は帰宅を急ぐときに余計なおしゃべりをしませんよね。仕事が終わったら、マイペースでやりたいという人もいます。そう理解したら、冷たいと最初思ったのは文化の違いによるカルチャーショックだったと納得できました」

「日本に来る前に、日本はベトナムとはこういう違いがあると教えてもらっていれば、悩まずに済んだはずです。しかし『ベトナムと同じですよ』と聞いて来ましたからね」。互いの違いを理解して付き合えば、受け止め方は変わる。今では「いろんな人と会って、日本をどんどん好きになりました」と岡本氏は何の屈託もなく語る。

ベトナム人のトラブルに悩む わが事として改善に動き出す

当初抱えた問題が解消して、公私にわたり充実した生活を送る中で、持ち前の親切心を刺激される問題に出合った。「2012年ごろです。ベトナムからの留学生や技能実習生がトラブルをよく起こしていたのです。スーパーで万引するなどの問題です」

社員食堂でベトナム人社員のグループで昼食を取っていると、テレビから昼のニュースとして流れる。「周りの日本人も『あっ、ベトナム人が』と見ているわけです。本当に恥ずかしい。それがたびたびなので、どうして問題を起こすのだろうと悩みました」

自分も困ったことがあったので、人ごととは思えなかったのだろう。東京にある日本語学校を回って原因を尋ねてみた。「分かったのは、来日前に日本の人の考え方や決まりをきちんと教育されていないことに多くの原因があるということでした」。認識不足のままやって来て、いざこざを起こして、問題行動に走るケースがあるという。

ならばベトナムできちんと教育すれば、改善できるだろう。そう思い付くと、直ちに実行した。「チャレンジでしたが、ベトナムに日本語学校をつくりました」。資金を出して友人に管理を頼んだ。日本留学の経験者が講師になり、日本語だけでなく、日本の文化や習慣も体験談を交えて教えた。2013年からコロナ禍まで存続し、約400人を日本に送り出した。

技能実習生として来日してからも、トイ氏は支援した。例えばベトナムの旧正月を祝うイベントを開き、悩み事の相談に乗った。会社とトラブルになると、頼りにされた。

ベトナムのハノイに設立した日本語学校。来日前に異文化を学び、日本とベトナム双方の発展に貢献する人材を育成

「そんなときは、私が会社に行って、経営者からも話を聞きます。双方の行き違いを解消するためです」。現場の担当者がベトナム人を理解せずに怒鳴るケースがよくある。「経営者に私の経験も交えて改善を促すと、『そうですね』とたいてい納得してくれます」

ボランティアでやっていたが、案件が増えてくると、やはりきちんとした仕組みが必要になる。そこで2017年7月にベトナム人の仲間2人と、今のヒューマンサポートジャパンを神奈川県藤沢市に設けた。

当面、トイ氏は兼業で、昼間は設計の仕事をして、夜間、土日を人材サポートの仕事に充てた。1年計画で引き継ぎを済ませて10年勤めた会社を円満退社した。「会社は励ましてくれて『何か困ったら連絡しなさい。応援しますよ』と言っていただきました」

創業時の社長はベトナム出身のパートナーで、トイ氏は営業部長だった。2018年に専業になると同時に島根県の江津市に単身赴任し、本社も藤沢から東京都町田市に移転した。

では今なぜ本社は江津市なのか。「私はもともと日本でも農業をやりたいと思っていたのです」と言う。

ベトナムのハノイに設立した日本語学校。来日前に異文化を学び、日本とベトナム双方の発展に貢献する人材を育成

農業もやりたくて江津に定着 国際交流センターに夢を託す

神奈川と東京で探したが、広い畑がなかった。たまたま東京で開かれた島根県の就農相談会で江津市のブースに行くと「いっぱい余っています」と言う。本当なのか見に行くと「なるほど、畑が余っている。夜、街中に人がほとんどいない」。江津市役所を訪ねると、「トイさん、農業をやる前に、人材の仕事をやったほうがいいのでは」と出し抜けに言われた。戸惑っていると「本社が町田なら、支店をつくればいい。お世話しますよ」と持ち掛けられて、江津支店を開いた。

岡本社長の原点である農業への想い。本格出荷へ向け、ベトナムの味・ライチの試験栽培に取り組む

農業の方は約20アールの畑を借りて、ライチの試験栽培を始めて5年ほどになる。果実のライチはトイ氏にとってはベトナムの味だが、日本産はまだ少ない。「本格的に栽培して出荷するのは来年以降になります」と言う。

農業は人格形成に大きく影響した。トイ氏は1983年10月に、首都ハノイから車で1時間ほどの農村で生まれた。当時はテレビも新聞もなく、「小さい頃は、村の人たちがご飯をたくさん食べられるようにしたいというのが夢でした」と語る。このためハノイ農業大学(現・ベトナム国家農業大学)に進んだ。父親が豚を売って入学費用を工面し、トイ氏は懸命に勉強して奨学金を得て学費を賄った。

農業の生産性を高めたいと大学では機械学部を選んだ。しかし卒業後、先輩の偶然の勧めで日本の企業の現地法人に就職した。「豊かになるには農業以外にこういう道もあると考えました。村の子どもたちに、視野を広げて考えてほしいと思ったのです」

周りの人のことを常に考える性格は故郷での貧しい生活の中で育まれた。日本国籍取得を決めたのも「日本が大好きになり、ずっと日本に貢献したい、日本人として働きたいという気持ちになったからです」と言う。

今の名字の「岡本」は最初に会った日本人の名前からとった。もとの「トイ」には「進む」という意味がある。これに、過去もしっかり踏まえて将来に進むという想いを込めて、日本人に昔多かった「太郎」を付けて、名前を「進太郎」とした。

岡本社長(右から3番目)を中心に多様な支援を担う社員たち。地域企業と外国人材の未来をつなぐ架け橋として歩みを進める

2022年に日本国籍を取得して岡本進太郎となり、社長になった。島根でのサポートに集中するため、妻子を東京から島根に呼び寄せた。本社も東京から江津に移した。ベトナム人5人を含む9人のスタッフが働きやすいように気遣う。本社の2階には、子どもが熱を出したときなどに、子どもを見ながら仕事ができるようにキッズルームを設けた。「スタッフが幸せでなければ、困っている人を助けられないでしょう」と考える。

今、近所の金融機関の空き店舗を「国際交流センター」に改装中だ。「当初『ベトナム交流センター』にするつもりでしたが、これからはインドネシアやネパール、ラオスなどの人たちもサポートする計画に改めたのです。地域の人と外国人との交流イベントや外国人材と企業とのマッチング会などで活用する予定です」。年内完成の見込みだったが、来年にずれ込むもようである。

江津を盛り上げようという岡本氏に、店舗を売却した金融機関も建設会社も協力してくれて、おかげで費用は安く上がるそうだ。いろいろな人たちの共感を得て、岡本氏の夢はベトナムから日本、さらに世界に広がりつつある。

岡本社長の原点である農業への想い。本格出荷へ向け、ベトナムの味・ライチの試験栽培に取り組む
岡本社長(右から3番目)を中心に多様な支援を担う社員たち。地域企業と外国人材の未来をつなぐ架け橋として歩みを進める

※本ページの内容は取材当時のものです。

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