ここにこの人あり

大震災に遭い覚醒 イチゴ栽培に挑戦し スマート農業を実践 日々革新に専念

東日本大震災がIT企業を経営していた岩佐大輝氏の人生を変えた。故郷・宮城県山元町の惨状に接して自分に何ができるのかを問い、地域の再建を使命として自覚。名産であるイチゴの栽培に一から挑戦した。そしてITを駆使する先端農場を経営するGRAの代表取締役CEO(最高経営責任者)として、今もグローバルに勝てる農業を目指して革新を続ける。
広報誌「日本公庫つなぐ」38号でもご紹介しております。

株式会社GRA 代表取締役CEO 岩佐 大輝氏

株式会社GRA 代表取締役CEO
岩佐 大輝(IWASA Hiroki)

1977年、宮城県亘理郡山元町で生まれる。2002年、大学在学中にITコンサルティングを主業とする株式会社ズノウを設立。東日本大震災後、甚大な被害を受けた故郷・山元町を復興するためイチゴ栽培に乗り出し、2012年1月農業生産法人株式会社GRAを設立。現在は日本および海外で複数の法人のトップを務める起業家として活動。「農業ビジネスの構造変革」を掲げ、IT技術と熟練の職人技を融合させた先端施設園芸を確立。ひと粒千円の「ミガキイチゴ」ブランドを創り上げる。武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の教授も務める。

津波に流された故郷に衝撃 直ちにボランティア活動に

GRAの岩佐大輝代表取締役CEOは、宮城県の山元町でスマート農業によるイチゴ栽培を実践する農業界注目の人物である。その岩佐氏には意外な趣味がある。今年49歳で、サーフィンの他に40歳を超えてからキックボクシングを始めた。

「友達にキックボクサーがいて、一緒にやろうということになったのです。年を取っても未経験のことにいつまでも挑戦する人間でありたいと思ったのがきっかけです」

精悍な顔立ちで、もともと格闘技が好きなのか。以前はIT関係のスタートアップの起業家だったので、アニマルスピリットが旺盛なのか。そんな想像をしたのだが。

「殴られるのは本当に嫌なんです。勝ちたいという闘争心もありません。試合に出るのが怖くてしょうがない。恐怖に打ち勝つためにリングに上がっているような感じです」と言う。

キックボクシングは単なる趣味ではないようだ。「人は漫然と生きるようになりがちです。今日の延長が明日で、明日の延長があさってとなったら、人間はそれ以上成長しません。だから非連続のマネジメントが必要です。格闘技のように、やったことのない嫌なことをあえてやれば、非連続をつくり出せて、慢心するのを防げます。私は自足したくないので、苦手なことをするのが好きなのです」

完熟ギリギリで収穫。熟度、果形、大きさ、糖度など、厳格に定めた基準をクリアしたイチゴだけが「ミガキイチゴ」として出荷される

そんな岩佐氏に人生最大の非連続の事態をもたらしたのは、2011年3月11日の東日本大震災だった。生まれ育った故郷は津波にのみ込まれた。山元町は宮城県の東南端にあり太平洋に面している。東京都の大田区を少し上回る面積がある。同町の資料によれば、最大12メートルの津波が町全体の約40%、可住地の約60%、農地の約70%を襲った。600人余りの犠牲者を出し、町は壊滅状態になった。

東京に住んでいた岩佐氏は車で山元町に向かい、3日後にたどり着いた。両親は無事だったが、あまりの惨状に衝撃を受けた。変わり果てた故郷を目の当たりにして、岩佐氏は途方に暮れるよりも、武者震いのような感覚を覚えたのではないだろうか。

「身近に亡くなった人もいて、自分は何のために生きているのかと考えました。元気な者が再建のために挑戦しないのは罪悪だと強く思いました。今もその気持ちは変わりません」。被災地はカオスで厳しい状況だったが、岩佐氏は立ち止まらなかった。

直ちにがれきや泥の撤去から取り掛かった。翌4月に有志と共にボランティア活動を担う任意団体のGRAを設け、7月にはNPO法人にした。社名にもなるGRAはグッド・リージョンズ・アグリカルチャーの頭文字である。「善い」仕事で社会を作り、「地域」の特性を活かし、「農業」を柱にするとの想いを込めている。岩佐氏は人生のかじを大きく切った。

完熟ギリギリで収穫。熟度、果形、大きさ、糖度など、厳格に定めた基準をクリアしたイチゴだけが「ミガキイチゴ」として出荷される

社会性に覚醒し人生豊かに 山元町の名産イチゴに着目

「生き方が変わりました」と岩佐氏は言う。「以前は時価総額の増加を追いかけるスタートアップの普通の起業家でした。しかし今はソーシャルインパクトをまず考えます。それなしには地域のビジネスはあり得ないと思うようになりました」。つまり地域社会を豊かにして雇用を増やすために、どれだけインパクトのある働きができるかを優先する生き方に変わったという。

「人生が豊かになりました。地域を元気にして、社会を富ますことを目標に仕事ができるのは、気持ちがいいですよ」と、晴れやかな表情で語る。故郷が破壊されたのは耐えがたいことだったが、岩佐氏は図らずも社会的な問題に覚醒して、改めてゼロからスタートを切ったのである。

山元町を奮い立たせるために、まず「旗を立てよう」と考えた。それには地域の人たちが誇る「イチゴ」を旗印に掲げるのがいい。山元町は宮城県で有数のイチゴ産地だったが、津波でイチゴ農家の95%が壊滅的な打撃を被った。「山元町のイチゴ」を再び盛んにしてアピールすれば、地域全体の空気を前向きに変えられると踏んだ。

同志をボランティア活動の中で得た。地元の社会福祉協議会に勤める橋元洋平氏で、現在GRAの共同創業者兼地域連携担当である。「彼は身内を津波で亡くしながら、地域のために尽くそうとボランティアセンターで働いていました。一緒に仕事したいと思いました」

意気投合して「じゃあ、共に会社をつくって、イチゴを作ろう」となった。その勢いで、資金を出し合ってかまぼこ型のビニールハウスを組み立て、9月には完成した。「多くの人が応援してくれて、社会の素晴らしさを実感しましたね」と振り返る。

目指したのは「日本一、世界一のイチゴ作り」である。大きく出たものだが、岩佐氏にははっきりとした考えがあった。「地域を盛り上げるのに、一番いけないのは隣の町とか県とか身近な所と競うことです。発想が小さくなって、隣と比べて勝ったとか負けたとかつまらないことにとらわれてしまう。視座を高く上げて、世界を目指せば発想は自由に広がります。扉を開ければ世界は広いぞという話です」

とはいえ岩佐氏はIT企業を手放してイチゴに「人生をかける」と決意したものの、イチゴを作るのは初めてだ。祖父はイチゴ農家だが両親は公務員である。このため橋元氏の親戚の橋元忠嗣氏に加わってもらった。津波で被災したイチゴ栽培の熟達者である。

ところが栽培法を尋ねると、忠嗣氏は「人に聞くな。イチゴと話をしろ」とにべもない。「イチゴの作り方は暗黙知で、マニュアル化されたものはないのです」と岩佐氏は言う。「私たちは忠嗣さんから見よう見まねで学べても、新規就農する若い人には無理です。芽を摘むことにもなりかねません」。そこで得意のITを活用することにしたわけだが、一筋縄ではいかなかった。

センサーを設置して忠嗣氏のスキルをデータとして蓄積し始めた。「パソコンなんか捨てろ」と怒る忠嗣氏と「激しくぶつかってばかりでした」と岩佐氏は語る。それでも共同作業は続いた。「私は、異質な人と仕事をすることで、イノベーションは生まれると考えています。たぶんお互いにリスペクトしていたのではないですか」

農業の常識慣行にとらわれず 青少年時代から奔放に生きた

震災の翌年1月に農業生産法人株式会社GRAを設立。2月にはイチゴを初めて収穫した。岩佐氏は日本の農業の構造改革を視野に置き、1年目から海外を視察している。これまでにオランダ、イスラエル、イタリア、スペイン、米国、韓国などを訪ねた。

イチゴ狩りも行っており、期間中は県内外から多くの観光客が訪れる

岩佐氏が農業の常識や慣行にとらわれないのは、イチゴにブランド戦略を導入した点にも表れている。「もういっこ」や「とちおとめ」などの品種ではなく、「ミガキイチゴ」というブランドで売る。複数品種のイチゴを磨き上げて、最高品質の「ミガキイチゴ」はひと粒千円で売り話題になった。

岩佐氏の奔放な生き方は、やんちゃな青少年時代から始まっているようだ。小学生の時からパソコンに熱中し、中学高校と進み予備校生だった19歳の時に、ひょんなことから東京に出て一人で暮らした。特技を生かしてパソコンでソフトを作って売るとともに、独自のデータ分析や確率論を駆使した勝負事で、学生の枠を超えるような十分な原資を得る生活を2年くらい送った。

「高校の同級生が官僚になるのや司法試験に受かるのを見て、パチンコをしている自分が不安になってきました(笑)」。都内の大学の経済学部に入るも、今度はIT企業を創業して、そちらが忙しくなった。

リーマンショックを乗り越えて、一念発起してMBA取得のため大学院に通った。「人生で一番勉強しました。面白い人が大勢いてよかった」が、2年目に東日本大震災に遭遇した。「何かが起きた時、即座に対応するには、準備ができていないと難しい。私は起業家を経験してMBA取得のためにも学び、用意できていたと思います」

「ミガキイチゴ」を利用したワインなどのアルコールやスイーツも製造。山元町のハウスに併設されているSHOPのほかオンラインでも販売している

約10年前から就農希望者がイチゴの栽培技術から経営管理まで約2年で学べる「ミガキイチゴアカデミー」を開いている。これまでに35人が修了し、約半数が独立してイチゴ作りを始めている。就農者の増加も重要な使命と考える。武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の教授でもある。

また能登半島地震の被災地の支援にも力を入れている。「能登の状況は本当に厳しいです。新しい取組みに挑戦する若い人たちを応援したい。その一環で能登の食材を我々のカフェで積極的に使うようにしています。私自身も能登町にボランティアで通い、農家の方々の相談に乗っています」と言う。人ごととはとても思えないのだろう。

現在、ハウスの面積は約3ヘクタールで、ミガキイチゴアカデミー修了者のパートナー農家も含めると約5・5ヘクタールになり、年間約300トンのイチゴを生産する。従業員は正社員35人、パートタイマー約70人である。東京でカフェを経営する子会社は正社員約20人とパートタイマー約80人を擁する。

今後について岩佐氏はこう語る。「中東の問題も起きて、農業はこれからどうやって拡大していくのか考えると、非常に厳しい。大胆に変わらないと駄目でしょう。時代が大きく変わっていますので」。成功体験を捨て、新たな展開を模索しているようにうかがえた。

イチゴ狩りも行っており、期間中は県内外から多くの観光客が訪れる
「ミガキイチゴ」を利用したワインなどのアルコールやスイーツも製造。山元町のハウスに併設されているSHOPのほかオンラインでも販売している

※本ページの内容は取材当時のものです。