兵庫県尼崎市で長年愛されてきた「讃岐うどん はるしん」を夫婦で事業承継した香川氏。20年間勤めた会社を辞め、夫婦で人生のセカンドステージへと踏み出した。その決意の背景についてお話を伺った。
![]() |
讃岐うどん はるしん |
---|
譲渡側:A氏
平成15年に「讃岐うどん
はるしん」を創業。自家製麺と手作り関西出汁にこだわり、「はるしん」を尼崎で多くの人に愛される店へと育ててきた。体力面から経営を続けることが難しくなり、事業承継を決断。令和5年3月に承継が完了し、引退した。
譲受側:香川 寿一氏(当時47歳)
約20年間勤務していたシャッター製造会社を退職し、妻の勤務先だった「はるしん」を夫婦で事業承継する。麺や出汁の製法はそのまま引き継ぎながらも、前職での経験を活かし、夜の部のメニュー強化などに取り組み売上拡大を目指す。
譲受側:香川氏
10年以上前から私の妻が「はるしん」で働いていたのですが、令和元年末に先代が高齢で体力的に辛くなってきたから、令和5年で引退するらしい、という話を家に持って帰ってきました。別々の時期ですが、実は、3人の子どもたちも全員が「はるしん」でアルバイトをしていました。私は私で客として通っていて、家族ぐるみの関係を築いていました。愛着もあるお店なので、「廃業するにはもったいないな」と妻と話していたのです。先代としても誰かに引き継いでほしいと考えていたようで、その後もずっと「やってくれる人がいるなら、この店も残せるのに」とずいぶんおっしゃっていました。そこから妻と2人で話し合って継ぐことを検討し始め、令和2年の年明けに先代に話を聞きに行ったのが第一歩です。
譲受側:香川氏
体力を使う仕事なので、女性1人の力ではハードすぎると思いました。「はるしん」は、何から何まで自家製なんです。うどんは粉と塩水をこねて作りますし、出汁もしっかり取る。買ったものをそのまま使っているものは何一つありません。
前職では人事にも関わっていて、こういうハードワークが若い人に敬遠されることは痛感していましたから、男性従業員を募集してもおそらく応募はなかなか来ないだろうと思いました。決断した当時、私は45歳でまだ体力にも余裕がありましたし、「2人だったら大丈夫。なんとかになるだろう」と思い、夫婦で継ぐという選択肢を取りました。
譲受側:香川氏
もちろん、かなり迷いました。前の会社は勤続20年を超えていましたし、役職もついて安定した収入を得られていました。定年まで働いた後は嘱託で雇っていただけるという将来の見通しもあり、「子どもたちも手が離れたし、さあこれからは楽ができるぞ」という段階でした。
ただ、子どもたちを育て終えたという一区切りがついたことで、次のステージに妻と一緒に進むのも良いなと思ったのです。ちょうどそのタイミングに「はるしん」が後継者を探していると知って、何か背中を押されたように感じました。妻と2人で仕事をするという機会が巡ってくることなんてなかなかありません。巡り合わせですね。
譲受側:香川氏
最初に話を聞きに行った時も、「正直しんどいよ」「働く時間は長いよ」など、隠すことなく教えてくれました。大変な仕事だということは十分理解した上で、事業承継の意思を伝えると、「やってくれるか。頑張ってくれよ」と喜んでくれました。先代も男手が必要な仕事と考えていたので、妻が1人で承継するという考えは頭になかったと思います。その時点で先代の引退まで2年あったので、「これから仕事を覚えてくれたら全然間に合うよ」と言ってくれました。先代も会社を辞めて1年ほどで「はるしん」を立ち上げているので、ベースが既にできあがっている状態からのスタートなら、2年もあれば十分という計算ですね。とにかくその期間でお客様が食べて美味しいと感じてもらえるレベルになろうという計画を立て、準備を重ねてきました。
譲受側:香川氏
まず、前の会社の社長に相談すると「それなら応援する」と快く承諾してくださり、時間をかけて後輩への引き継ぎを行いました。その後、時間を見つけてはお店に手伝いにきて、先代の動きを学びました。あとの1年間は朝から晩まで店に入り、本格的に「はるしん」での修行です。仕入先には事業承継を行ったことのお知らせを送付して、今後も変わらずお取引させていただきたいという旨を伝え、電話でも「今後もお願いします」というご挨拶をしました。
また、先代が経営者の間にパート従業員を1人雇用していただいて、私が引き継いだ時にスムーズに新体制に移行できるように準備をしていただきました。現在はそのパート従業員に加え、アルバイトの男子学生にも来てもらっています。先代からは、体力面を考えるともう1人男手が必要だと何度もアドバイスを受けたのですが、初年度から従業員をもう1人増やすことには不安があり、「私1人で2人分の仕事をします」と押し通しました(笑)。
ただ、そういうアドバイスも聞けたことで、考えや状況が変わったときの選択肢が増えました。先代をはじめ、お客様にも「〇〇さんだったらどうします?」とよく相談しています。それを実行するかどうかは別として、私1人の頭で考えるより、いろんな人のアイデアを引き出しに持っておいた方が良いに決まっていますから。
譲受側:香川氏
先代から提示されたのは金額だけで、あとは好きにしてくれたらいいと言われました。ただ、常連のお客様もいますし、インターネットでも「尼崎のはるしんは美味しい」という口コミも多くて、それを見て来てくださる新規のお客様も多いので、看板もメニューも変えていません。店内の雰囲気もそのまま、設備もそのまま使っています。ですから、常連のお客様以外は店主が変わったことも知らないと思いますよ。
譲受側:香川氏
先代が事業承継前に銀行員の甥御さんに色々と相談をされており、私もその方から兵庫県の事業承継・引継ぎ支援センターを紹介していただきました。その担当の方との面談の中で、活用できる兵庫県の支援制度をいろいろと教えていただき、尼崎商工会議所も紹介してもらいました。尼崎商工会議所には、事業承継に必要な資金の借入や、借入にあたって必要な事業承継計画書などの書類作成についてサポートを受けました。
資金の借入は日本公庫に相談しました。初年度は実績がない状態なので銀行で借りるにはハードルが高いのですが、日本公庫の場合は、何をどうすれば借入ができるか、担当者の方から歩み寄って教えてくれるので非常に安心感がありましたね。成約時に支払う譲渡対価や設備の修理費などにかかる資金は、日本公庫からの借入金でまかなうことができました。最初は貯金の半分をこれに充てようと考えていたのですが、日本公庫の担当者が「そのお金は生活のために残しておいた方が良い」とアドバイスをしてくれたことも感謝しています。
譲受側:香川氏
尼崎商工会議所の紹介で兵庫県の「事業継続支援事業」を利用しました。これは、店舗の賃借料の50%を3年間補助してもらえるという制度です。個人事業の第三者承継のうち、飲食業からの応募は私が初めてとのことでした。前例がなかったのですが、出すだけ出してみようという気持ちで応募をすると、無事に申請が通りました。おそらく、これまでも飲食業の第三者承継をした方はいたと思いますが、制度を知らなかったのだと思います。私も当初は支援制度の存在も知りませんでしたし、商工会議所に相談するという考えもなかったので、今回、各方面に相談ができてとても助かりましたね。
譲受側:香川氏
特にありません(笑)。飲食業では、材料が不足してはいけないし、在庫を持ちすぎてもいけないし、判断が1日でも遅れると損失を生んでしまいます。自分の店ですから、これを自分で決断しないといけないのですが、前職で得た工程管理等の経験や知識が非常に役立っていますね。経営感覚が体に染みついていて、その点では苦労したとは感じていません。前の会社でも良い経験をさせてもらったと非常に感謝しています。
譲受側:香川氏
休日の使い方は以前とは全く違います。定休日には仕込みをするので、丸1日休める日が少なくなりました。ただ、それでも楽しいと思えますね。これでまたお客様に喜んでいただける、と思うと仕込みにも力が入ります。それに、今後もっと効率良く経営ができるようになれば、これまでのように趣味のゴルフにも行けるようになると前向きに考えています。
譲受側:香川氏
先代がとてもまめな方で、全ての材料や調味料の量・作り方をパソコンで管理されていて、エクセルに作りたい分量を入力すると、それに合わせて必要な材料の量が自動的に算出されるようになっています。火を入れる時間や火加減、どのタイミングで何を投入して、というレシピまで全て管理されているのです。これまで料理なんて全くしたことがなかったのですが、昔の職人のような「見て覚えろ」というスタンスではなかったので、助かりました。
ただ、麺だけはそうはいきません。何gの粉に何ccの水を合わせるということは分かっていても、その日の気温や湿度によって踏み具合、伸ばし具合、長さというのは毎日変わります。かなりの目と腕が必要で、先代も「これだけは追求しきれていない」とおっしゃっていましたね。私はたったの2年ですから、まだまだ試行錯誤です。
譲受側:香川氏
常連さんの中には「うまい、大丈夫や」と太鼓判を押してくださる方もいれば、黙々と食べて帰っていくけれど次の週にまた必ず来てくださる方もいます。常連さんが来店し続けてくださって、新規の来客数もキープできていることが答えなのかなと思っています。もちろん今でも100%の自信があるわけではありません。特に常連のお客様にうどんをお出しする時は祈るような気持ちですが、3ヶ月経った今は心にも少し余裕が出てきました。
ただ、先代は1度も来ていないんです(笑)。最初のうちこそ不安で「1回くらい来てほしい」と思ったこともあったのですが、今考えれば逆に良かったと思っています。おそらく、最初の1、2ヶ月のうちに来られていたら、頼ってしまっていたと思います。でも、来ないから全て自分で決断しないといけないし、逃げられない。先代も、メリハリをビシッと効かせて、「頑張れ」という気持ちで来られていないのではないでしょうか。今後、先代がやって来てうどんを1杯食べて「じゃあな」と帰ってくれた時が、本当に認めてもらえた時なのかな、と自分では思っています。
譲受側:香川氏
売上拡大に向けた3年間の計画を立て、それに沿って動いているところです。
先代が過去19年の売上データを全て残してくれているので、ここ何年かのデータを分析したところ、夜の部の営業の売上が弱いことに気づき、強化することに決めました。まずは酒類の提供をスタートし、今後はおつまみになる一品メニューも充実させるつもりです。
1年目は売上をしっかりと確保することに注力し、その上で2年目はチャレンジの年にしたいと考えています。現在は火曜日と水曜日の週2日を定休日にしていますが、どちらか1日の昼営業を追加し、従業員をもう1人増やしたいですね。さらに3年目は夜の部の営業時間も拡大したいという考えもあるのですが、そこは状況を見ながら、臨機応変に進めていきます。
譲受側:香川氏
飲食業は、明日のことは予測できない商売です。お客様が来るかどうか、確かなことは何も分からないまま、来店人数を想定して朝から一生懸命仕込みをしないといけません。来店が想定より少なくてショックを受けることもあれば、予想以上のお客様に来店いただける時もあります。だから明日のことを考えても仕方ないのですが、やっぱり考えてしまう。でもそんな時も、2人なら乗り越えられます。天気予報を見ながら、「明日お客様来るかな」と私がポロッと漏らすと、妻が「来るやろ」と軽く返してくれる。こういう日常的なやりとりができる存在がいることが、不安な気持ちを支えてくれます。これから事業承継をされる方も、信頼できるパートナーと一緒に挑戦するといいですよ。あとは気合いと祈り(笑)